エピソード44 孤独な司教
「わかった、このガムの効果はなんですか?とてもじゃないが先に心構えをしていないと使えそうにない。このガムは唐辛子の酷い匂いがするのですが」
レイピアを引き抜いたニルは周囲を見渡しながら王族の住居を歩み始めた。正面の奥にある大きな扉の先は会議や談合をする場所だろう、ここからは死の気配が感じられない。どこかに教会があるはずだ。
「ガムは体温を急上昇させるだけだ。葬送香とヴェール香のうち前者はレイピアに、後者は掌にまぶして直接、拡散させて使うとよい。レイピアから吹きだす蒸気香はそのまま霊を攻撃するための切先となるだろう。今までよりはずっと立ち回りが楽になる。銀銃は時が来たら使え、グリッパーの存在価値は理解したのか?」
それほどの高体温になるための
「ウォォォーン」
ボグトゥナの咆哮は左の空間の方から聞こえている。張り詰めた空気と死臭が一層強くなった。前方に意識を集中した。ボグトゥナを手懐けることができないのであればルミナール・ロバートは既にこの世にいないはずだ。何かがおかしい。小型のボグトゥナはゆっくりと歩行して徐々に国を蝕んでいくとでもいうのだろうか。
「ある程度は想像できました。ですがそのイメージを再現する方法は思い浮かんでいません。要するにレイピアと銃…グリッパーを連結させるような」
頭の中に笑い声が響いた。
「はははは、やはりまだ未熟だなお前は!だが正解は見えているようだな。仕方がない、託宣をくれてやるよ。ありがたく受け取るが良い。今持っているカモフラグランスを袖に隠せ!いいかチャンスは一度しかない。お前は一度派手に転んで死んだふりをする必要がある。ボグトゥナは他の霊と同じように死体には興味がないからな。生者としての存在を消すのだ。だがしかし、私は未来が読めるわけではない。状況を見てお前自身が判断するのだ」
まるで回答になっていない。さっぱりわからなかった。それに頭に響く師が語ることは元から大半が未来予知だ。要するに最初から死体であってはいけないのか?カモフレグランスの瓶をベルトから引き抜いた後に袖の内側に隠した。その時だった。
「さあ、ポールド王。こちらです。心苦しいのですが、真の王になったあなたにお願いがあるのです。私はあなたを神にした。だから少しばかり願いを叶えていただきませんか?」
ルミナール・ロバートのものと思われる声と別に鼻息が聞こえる。息遣いの中に混じる言葉は人の言葉ではなかった。師匠の気配が頭の中から消えた。羽虫がなく音に力なき死者の声が混ざっているかのようだ。
「これから王城の裏にある非常階段を抜けて墓場に行きます。さあ、私の手を取って」
墓地に行って何をしようというのだ?ニルは音のなる方へ駆け出した。
「私は愛の契りを交わしたい。ただ、モナ・バートンという女性にプロポーズがしたいのです」
円を模った通路は中心だけまっすぐ伸びている。墓地の方向は正面だから、裏の階段を降りるのであれば右の通路にボグトゥナとルミナール・ロバートがいるはずだ。
三つ目の通路の奥を見たニルは足を止めた。黒い礼服を着た長身のエクソシストの背中が見えた。長い形状の十字兵器を腰に携えている。もう一人は金色の豪勢なあしらいが施された赤いローブをきている。本来はレッドカーペットの上を撫でるほどの長さがある王のローブは少しばかりしか床に触れていなかった。頭にはトナカイのような角が生えている。ボグトゥナ…人二人分の高さがある天井に角が引っかかりそうじゃないか。でかいな。まだ通路の先は長い。追いつくことができた。
「グッドイブニング、というべきかな?お前がルミナール・ロバートで間違いないな。俺はエクソシズムインセンスのダージリン・ニルギルだ。この国の王子、アデルの依頼を受けて調査を行なっている」
振り返ったルミナール・ロバートの表情は蒼白、表情は冷酷に満ち溢れていた。だが服には一切の淀みがなく。長い金色の髪は綺麗に整えられていた。青い目からは尋常じゃないほどの殺意が放たれている。それは人間のものというよりは狼の霊体のものに近かった。邪悪に満ちた感情に支配されているとはいえ目的は達成されたのだ。普段以上に身を清め、準備を整えている。どうやら出来上がった最強の兵器を眺めながら一人で祝福の儀をあげるつもりだったようだ。
「何がグッドイブニングだ、おのれ、貴様。どこからこの城に入った。なんという見窄らしい身なりだ。エクソシズムインセンスだと。妙なやつを手駒にしたものだなアデル王子は。うむ、貴様はバチカンの追手ではないのか?」
嫌な気配だ。だが冷静さを失っている様にも見える。あるいはバチカンの追手でないのであればまるで問題がないといったところだろうか。ロバート司教は腰につけた十字の長剣に手を伸ばそうともしない。現状、相手は凶悪な霊であるボグトゥナを手なづけていると決断するしかない。少し嘘を交えながら揺さぶるとしよう。
「その通りだ、だが師はこの時を予測してポールドに俺を派遣した。バチカンとの関わりがないとはいえないぞ。それにここに来るまでに見つけたエクソシスト達の死体に関しては証拠を記録してから雇った使役人を通して街に流した。お前に逃げ道はない」
目の前にいる禁忌を犯した司教は動じるそぶりを見せなかった。
「ふん、そのくらい、どうとでもなるさ。この国の王は姿を見せずとも存在しているからな」
確かに国民を騙すことはいくらでもできる。今までもずっとそうだったからな。
「ボグトゥナ…だったな。ハルベルク・シュベルト王はもう元には戻らないようだ。いつまでその化け物がお前のいうことを聞いてくれるのか、見ものだな」
眉間に皺を寄せたロバート司教は怒鳴り声を上げた。
「貴様は何も知らないのか?死者との愛の契りを交わせば、この化け物は婚姻式を見守るキリシテとなるのだ。そして私に力を貸してくれる」
「なんだそれは、聞いたことがないぞ」
ニルにもたらされたものは非現実的かつ混沌とした上に端的な情報だった。恐らく真実ではないはずだ。きっとこの男は誤った情報をもとにしてボグトゥナの発霊にのぞんだのだ。正気を保っていられなくなったのか?いや違うな、「婚姻式を見守るキリシテ」を追い求めてきたからこそ今の結果があった。計算高い男だと思っていたが周囲に見せる知的なリーダーの姿、その裏には迷妄にまみれた執着があったようだ。
この男は自分の部下や君主を操り、儀式のリソースとして利用した上で人為的な発霊を成功させた。だが最後に残るのは一人だということがわかっていた。自分の部下に対して生贄になれ命令したことはないのだろう。だからずっと一人で迷信を抱え込んでいたのだ。確かな情報でもなく信仰とも呼べない何かに縋っていたのだ。
これ以上の詮索は無意味だ。この案件が解決したならば追加で調査する必要がある。
「モナ・バートンのことだが…。彼女の霊体は先日、消滅した。俺が除霊したんだ」
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