エピソード43 ボグトゥナの咆哮

 生気を失った褐色のエクソシストを観察し直すと額にある血の紋様がわずかに振動している。ワクチン、その対象にある毒を生み出す撹拌機械のような振動が乾いた血液に非科学的な干渉を伴う潤いを与えているかのようだ。ベルリ南北戦線付近の霧とは違う冷えた空気が漂っている。ガラス張りの連絡通路の奥から嗅いだことのない密度の高い死臭が漂ってきた。


「自分を信頼していた部下になんて残酷なことをするんだ、これだけの代償を伴ってもボグトゥナを手懐けることのできる保証はないはずだ。師匠の声がしない、先ほどの声はやはり幻聴だったのか?答えは出た。だから最後の言葉を聞かせてくれないか?」


 胸に吹き抜ける冷えた風を感じた。舌打ちをしたニルはヤケクソで血の紋様を揉み消した、すると先ほどのサイレンの音とは全く違う荘厳な鐘の音が聞こえた。徐々に歪んでいった音は無線のフィードバックを圧縮したノイズに変わった。そして徐々にこの世のものではない亡者の咆哮へと変容した。


「ウォォーーーーーーーーーン」


「ダージリン・ニルギル、答えは出たか?見事だ。見ず知らずの土地でボグトゥナに辿り着けたようだな」


「待ってくれよ、今なのか?目眩がする」


 ボグトゥナの存在を確認した。こだまする神の咆哮が外に響くと同時に脳内では亡き師の声が反響していた。事態は一刻を争う。亡者の咆哮がこだましている連絡通路に足を踏み入れた。

 

「迷うことがあるのか?今の私は柔軟に思考した上での返事などできないぞ。占い師に会うことができたか?あれは私の使用人だからな、何も問題があるようには見えなかったはずだ」


 噂話の中で死神と呼ばれていた占い師は姿すら見せなかったぞ。


「答えはノーだ。だが怪しげなガムは入手した。イエスかノーにしか反応できないのならイエスかもしれない」


 プログラムとやらの思考時間なのだろうか三秒を要した。


「ほう、ガム…か。ニル、お前は相当に早い段階でその場所にいるようだ。そのガムはエクソシズムインセンスの力を限界以上に引き上げることができる。使用するには本来、戦闘訓練が必要になるが、お前が熟練したエクソシストなら別のものを渡されていたはずだ。だから占い師としては間違ってはいない選択だ」


 本当に柔軟な思考をしないプログラムなのか?皮肉たっぷりじゃないか。


「ヨーロン地方だったらどこでもよかったのか?どこまで計算してこの呪いを俺の中に仕込んだのですか?」


「素晴らしい解答だ!それには返事ができるよ。直感の優れているお前なら気づいているだろう。私はヒステラー将軍を依代としたボグトゥナ降霊の生贄となった。ヒステラー将軍は伝令兵と無線を利用して各国の有力者や邪悪なエクソシストにボグトゥナの降霊術法を拡散している」


 まさに情報という名のウイルスだな。


「その情報を認知していたのであれば、ヨーロン各国のどこかで起きる降霊儀式に俺が辿り着くことも予期できるのかもしれない、少し俺を買い被りすぎていないか?そんなギャンブルで化け物が生まれることを阻止できるとでも思っていたのか?事実、すでに神のトナカイはこの世に解き放たれた!」


「怒りを沈めたまえ、若きエクソシストよ。ははは、その回答も素晴らしいぞ。問題はない、私の弟子はその場所にいた。ただそれだけのことだ。私や他の豪傑とも呼べるエクソシスト達がヒステラーのようなサイコのために犬死にしたとでも思っていたのか?だが私たちの失敗は戦争を止めようとしたことにあった。それは後からいくらでも調べることができる。お前に手助けしてくれた人間達のことを思い出して冷静になるんだ」


「ヴァチカンに追放されたエクソシストに殺害されたベルバトール・ユーズとハイデル・モールス。彼らがいなければ王城には辿り着けなかった。閉鎖国家であるポールドは平和だった。だがどこかで奇怪で息の詰まるような民衆の表情に違和感を感じていたのも確かだ。本来王家で育つはずのアデルとその護衛のアンデルセンも非情に屈することなく気高く生きていた。体一つで生計を立てる男の妹、ストーナー・クレセントも勝負にこだわることで強く生きていた」


 王を救うことができなかった。依頼人に応えることのできなかった悔しさが胸を締め付けている。


「詳しくは理解できないが、ただ言えることはお前がボグトゥナに敗れた場合、彼らに真の平穏が訪れることはないということだ」


 ボグトゥナだけが敵ではないはずだ。何かが引っ掛かる。やはり生前の師匠そのものではないようだ。脳内の声は聞いたことにしか答えないように思える。


 連絡通路を抜けると先ほどまでの建物とは打って変わって赤い絨毯が敷き詰められた王家の領域が広がっていた、カーブを描いた左右の通路、そして奥の通路はすぼんでいることからこの王城は円形で設計されているようだ。鳴り止まない咆哮はおそらく同じ階層から放たれている。真っ赤な視界に闘技場やオーケストラの仕事場であるホールにあるような便利な案内図はない。


「城の内部が崩れたり破壊されている様子はない。ボグトゥナは小型のようだ。それについては返事はできますか?」


「フム、運がいいじゃないか。その程度なら解決できるかもしれないな。ボグトゥナの完成体は生まれない。ボグトゥナを追い求める人間達は多種多様だ、そしてその誰もが様々な方法で降霊を試みるだろう。だが上手くコントロールすることや檻の中で飼い慣らすことなど到底できないよ。ただの人喰らいの化け物が世に放たれるだけさ」


 人喰らいの化け物? 妙な表現だ。それは聞いたことがないぞ。


「その程度の情報ならヴァチカンが広めているはずだ。旅が長いせいで知ることができなかった」


「それは予定通りだ、お前は器用なことをする人間ではない。だからその場所にいる。そうだな、欲に目がくらんだ人間達にはエクソシストの声と神の教えは聞こえないのさ。ボグトゥナを生み出したところで戦争で勝つどころか全てを失うのが必然なのにな」

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エクソシズムインセンス 北木事 鳴夜見  @kitakigoto

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