エピソード12 サキュバス1-4

 鎖が床に落ちる、その瞬間にサキュバスとの距離を詰めた。東ベルリ軍で教え込まれたフェンシングの構えをとって縦に足を開いて踏み込む。それと同時にいつでも銃を銃を抜けるようにガンホルダーに左手を添えた。雨は強くなる一方で事務所の窓の向こうは水の膜で見えなくなっていった。タバコの煙を吸い込んで吐いた。レイピアから噴き出すヴェール香の効果で変質型怨念霊の特質すべき力を回避できるはずだ。事務所のドアが開くと看守たちはすぐさまベルトを外してズボンを下ろした。墓場と事務所を隔てる幅五メートルほどの通路に感激の叫びが響いた。その叫びは墓場中に轟き周囲にいた霊の気配をかき消した。

 先日起きた霊害の際に監視用の灯台にいた人間がみたのは看守たちが墓場に出ていく姿だった。つまり霊に殺される瞬間は誰もみていない。

 変質型怨念霊は生前に犯した罪を償うことなく墓場に埋葬されていることが多い。そのため死後にも完全犯罪かあるいは罪を隠蔽することへの執着が見られる。彼らは絶対に自分の犯行現場を明かすことなく殺人を犯す。その自信に満ちた欲求から生まれた力がある。彼らは犯行の瞬間に半径十メートルの黒い霧を放出することができる。エクソシストたちはこれをインビジブルマーダーシーン(見えない殺害現場)と呼ぶ。インビジブルマーダーシーンの中はエクソシストだけでなく一般人も自由に出入りすることができる。だが一つ問題がある。

 インビジブルマーダーシーン(見えない殺害現場)のもたらす霊を隠す霧はありとあらゆる光を消滅させてしまう。事件のあった時間に電灯だけでなく火の光や蛍の光でさえ無に帰す。墓場管理事務所の電球がチカチカしていたという証言もあったことからある程度は想定内だった。

 彼らは生前にサイコパスだった。故に死後に自分の身を守るための蒸気を発することができるのだ。

 おそらく無線の男はインビジブルマーダーシーンの中を行ったり来たりしていたのだろう。だがサキュバスの攻撃手段がどういったものなのかはデータがない。

 モナ・バートンの名を呼んだ瞬間に首を刎ねられる可能性があるとすれば顎から伸びる牙か爪、あるいは脚を振り回して来るかもしれない。

 一般的なエクソシストはヴェイプフェンサーと同じように線香型ヴェール香を手に持つか数人が光を守るためのヴェール香を焚く。交戦する銃士と現場を照らすライトを持つ担当。これらのメンバーを伴うチームで協力して霊払いを行う必要があるのだ。

 ヴェイプフェンサーはそれを一人で行うことができる。ヴェール香を焚いた状態で剣を持ち、胸のランプで霊を視認して霊払いを行う。ライトをつける。灯された光を守る。そして銀銃か葬送香で怨念霊を消滅させる。

 サキュバスの捕食が始まった。下半身を露出した間抜けな姿の三人が一列に並び天を仰いでいる。最前にいる男の股間にしゃぶりついたサキュバスは唾液と看守の性器を滑らせて卑猥な音を立てている。横から見るガニ股でしゃがんだ姿を見ると乳首や性器は血の塊がオブラートのようになって隠されている。すでに死んだ者は生者が持つ人間の象徴を失うのだ。

 レイピアを構えてからその場で素早く一回転したニルはヴェール香を拡散させた。そしてカートリッジを葬送香に切り替える。そして銀銃を抜いて構えた。両手が塞がった状態では香のカートリッジを入れ替えることはできない。

「モナ・バートン。たった今宣戦布告する。生者姦淫と五人の殺害容疑でお前の名を呼んだ。エクソシズムインセンスであるダージリン・ニルギルがお前をこの世から消滅させる。この世の罪を償うことができないのであればおとなしく天に召されるがいい。今すぐ生きとしいける者への執着を捨てたまえ」

 しゃぶっていた看守の性器を手放したサキュバスから放出される黒い霧が消えた。

 唾液を指で拭ったサキュバスの顔はそこらにいる人間よりも遥かに美しい人形のようだった。だが騙されてはいけない。人外が持つ顔の造形は幻想に過ぎない。

「貴様は今、私の名前を呼んだわよね。いつからそこで私の体を見ていたのかしら。あなたはなぜ私の名前を知っているのかしら。おかしいわね。司祭様が目覚めたらいつものように愛してくれるって言っていたのに。あれ?」

「あれ?あれ?誰なのよ!このブサイク。下等な男の粗末な体!」

「司祭様!私を十字架で清めて!あなたが恋しい」

 頭を抱えて悶絶するサキュバスの体を正面から見ると喉元にある十字架の霊紋の周りには無数の傷跡を表す角張った血の首飾りのようなものがついていた。生前のモナは司祭と肉体関係にあった。だがその関係は歪んだものだったようだ。モナ・バートンは体を傷つけることで未知の欲求を満たす行為に及んだ末に病気で死んだのだろうか。この女は被害者だったのかもしれない。死んだ時期から十年が過ぎたタイミングで突如発霊したのであれば、もしかすると司祭と呼ばれる男から死ぬ間際に「十年後に目覚めたらまた愛してあげるよ」と、そう言われたのだとすれば。

「僕の名前を呼んでごらん、モナ。ほら近くにおいで愛してあげよう」

 そう語りかけたニルは銃を持った手に熱を加えた。

 眉間に皺を寄せたサキュバスは足を交差させてこちらに向かってきた。墓場管理事務所から射す光が霊体を照らして妖艶なシルエットを作り出していた。

「違う!ロバート様はこんな匂いはしない!何よ!不愉快な匂いさせて!殺してやる!殺してやる」

 サキュバスは自分の首に指を潜らせて肉を抉っている。そして裂けた首の中から小さなナイフを取り出した。自分と性行為を行なった人物が司祭ではなかったことに気付くたびにこうして体の中のナイフを取り出していたようだ。

「もう少し話を聞きたいところではあるが仕方がないな。なるほど、キリシテ宣教会ポールド支部支部長ルミナール・ロバートが遺体にナイフを仕込んでいたわけだ。では天に召されよ。モナ・バートン」

 左手で構えた銃の撃鉄を起こしたニルは素早く引き金を引いた。サキュバスは首から取り出したナイフを構えることはなかった。ヴェイプフェンサー専用のリボルバーから放たれる高熱の銀弾によって頭部が吹き飛んだ。

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