キンツェム女帝・ヴァルダナール

 キンツェムの国主は白虎である。名をヴァルダナール・エルバダーナ。

 ハフリンガー大陸シャイヤー湾南側は、エクウス大陸との境目に位置する褶曲山脈からなだらかに広がる高原が面積の七割を占め、麦や牧草、野菜の育成に適していることから古くから穀倉地帯としてハフリンガー全域の民の食卓を支えてきた。裾野は暖流の影響を受ける湿潤な密林が広がり、平野部は灌漑による治水がおこなわれている。その緑豊かなキンツェムの地を長く治めてきたのがチグリス・エルバダーナ族の長でありキンツェム女帝ヴァルダナールだ。


  雨が近いわけでもないのに纏わりつくような湿気を孕んだ熱く重たい空気。キンツェム城下町特有の気候だ。柳が垂れる枝を持つ運河に繋がる環濠集落が密集してできた城下町は、細い水路に架かる石造りのアーチ橋や小舟が交通手段として行き交う光景が特徴だ。全ての運河はキシャル城の堀に続いている。運河沿いの通りには竹細工の灯籠が飾られ、楼閣からは華やかな歌舞音曲が聞こえてくる。神託の婚姻を祝福して城下町街はお祝いムードに包まれている。

 城下町に到着し、輿から降りて用意された舟に乗る。

 俺と姫と側近のカイン、リョウ。姫の侍女シャオチェ。そしてラタキア将軍、ジウスドラ参謀が城に向かう。城の滞在は七昼夜。その間、城下町で鍛冶職人に四脚獣の蹄の手入れに保護用の蹄鉄の付け替え、輿の点検、色々雑事もあるが、部隊はひとまずしばしの休憩だ。



 一段と広い運河で囲われた大堀の内側の広大な敷地には尖塔をいくつも備えた三つの棟、王族の内宮殿、謁見、外交の外宮殿、政を執り行う政庁がいかめしく聳えている。女帝の住まうキシャル城だ。大昔あまねく地を統べるキシャル神がこの地に降りた時、はるか遠くの山を削り、島を生み、城を建てたという。

 奇遇だが、グラディアテュールのラディスファイ城にも『あまねく天を統べるアンシャルの神話』という題で似たような話が伝わっている。


 堰を開いて城の大堀に入ったところでハーフミアキスのカワウソ船頭が水面を指さした。

「キシャル城の大堀は海に繋がっているんすよ」

「どうしてまた」

「運河を泳いで渡ろうとする猿やら鹿やらをちっこい海竜が喰らうんです」

 よく見ると、城側の石壁は垂直ではなくて爪を立てて登ることが出来ないようやや内側に傾斜している。

 害獣対策に竜を利用する。サピエンスの考えることは本当に想像を超えている。


 キシャル城の船着き場に到着し、謁見の間に向かい、女帝に拝謁した。玉座に座する女帝はもう大分足腰が衰え、側仕えの者に両脇を支えてもらわないと歩くこともままならないような状態だった。それでも青色の眼光は鋭く、聡明な知性を感じる。


「食えない婆さんって感じですね」

 頭を下げつつちらり盗み見を働いたギンギツネのリョウがこっそり耳打ちしてくる。

「失礼だぞ」

「カインは会ったことがあったんですよね」

「殿下の側近に就いてすぐの頃に一度な。ところでリョウよ」

「なんです?」

「今は公儀の場だ、言葉遣いは気を付けろ」

「はぁい」



「久しいですね、シェリアル」

 シェリアルがグラディアテュール風の袍の裾を優雅につまんで心持ち頭を垂れる。その優雅な仕草に傍らに控えるシャオチェが感嘆のため息を吐いた。

「ご無沙汰しております女帝陛下」

「ダキアも息災で何よりです」

 白銀の国主は、玉座で軽く目をすがめたように見えた。息災という言葉になんとなく、とげのような険を感じるのは気のせいだろうか。

「大公、部屋に案内を」

「畏まりました」


 外交官の大虎大公に案内されて水鏡の中庭をのぞむ回廊を進む間、隙を見て耳打ちした。

「アシル神殿での件は」

 あの場で口止めしておいたけど確認しておいた方がいいかもしれない。

 大公は髭をちょっとうごめかして答えた。

「この国でそのことを知っているのは儂と家内だけだ。義姉にも言うてはおらん」

 姉とはヴァルダナール女帝のことだ。


 案内されたのは、外宮殿の中でも一等眺望の良い棟の一室だった。窓から見える海は暗い紺碧のシャイヤー湾と違って、透き通った緑色だ。磨きぬかれた化粧板が幾何学模様を描く床。壁一面には蓮を図案化した唐草文様の花園でサピエンスとミアキスヒューマンが対になって踊っている浮彫。天井には七色に輝く宝石が簾に下がる装飾灯。瓔珞を幾重にも垂らした大鉢。金泥で線の引かれた紫檀の卓。ジウスドラが興味を惹かれているから多分サピエンスが遊戯に興じる道具なのだろう。六人掛けの卓の瑠璃鉢には色鮮やかな果実が盛られている。

 扉を閉めるなり今度は大公から「姫の記憶が戻る兆しはないのか」「宮司の言う怪しいサピエンスは見つかったのか」と詰められた。

「アシルを出て再度蓮星が満ちる夜を迎えたのに、まだ下手人も見つからんのか。その間なにをやっておったのだ」

 忘れていたわけではない。が返す言葉もない。行幸の間、立ち寄ったどこにも【当時集落を留守にしていたサピエンス、または最近邑を訪れた身元不明の風来坊サピエンス】がいないのだ。城下の大集落でもない限りサピエンスは数が少ない。そしてどこの集落でも知恵者、技術者として重宝されている。特に先先の雪の季節以降は雄のミアキスヒューマンも数を減らしてしまっているから、長い間集落を空けること自体がまず困難だ。

 そのことを簡単に説明すると、大公はがっくりとうなだれ、ふぅ、とため息をついてシェリアル姫を見やった。

 侍女シャオチェと今夜の宴の衣装とアクセサリーを選んでいるが、そのさまはどことなく恐縮し身の置き所がないといった風にも、大公を気にしてぎこちなく竦んでるようにも見える。仕方ない。婚礼の朝からの記憶しかないシェリアル姫にとっては、虎大公はアシル神殿で少々険悪な雰囲気を醸した怖い方、という印象しかないのだ。

「この貴賓室は、アシルの国王夫妻と幼いシェリアル姫が来訪した際に逗留された特別な部屋なのだよ」

 もしかしたらこの部屋を用意したのは何かしら記憶が戻るきっかけになればよいと考えてのことか。

 女官を怖がらせたり代替え案を提示出来なかったり外交官としてはイマイチだけど。案外身内には優しい性質なのかもしれない。

「感謝します」





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