姫と侍女

 三蹄重種の歩みが止まって、車駕の軋みが静かになった。御簾の外からラタキア将軍が「着きました」と声掛けしてきた。

 今日は集落で一晩逗留して晩餐を摂ることになっている。


 シェリアル姫の替え玉として輿の中で寝起きすることはや三日。長旅なので、几帳で仕切られた座所の他に、衣装箪笥、長椅子と卓、寝台と調度品が一通り揃っている。敷物は蓮星と唐草の文様。移動中、終始揺れることを除けばなかなか快適な乗り心地だ。わざわざ誂えた専用の輿だと参謀のジウスドラが言っていた。

「道中、不便をおかけするわけにはまいりませんからね」

 その姫様は婚礼前日まで「殿下と共に討伐に赴くことだってあるかも知れないでしょう?」と仰って名人に弓や剣の師事を仰いだり、野宿と称して何度も四阿で夜を明かしていたことは伏せておいた方がいいようだ。

 それはともかくシェリアル姫は案外楽しそうだ。夕刻、幕舎に戻ってくるとダキア殿下と一緒に兵站で賄いの手伝いをしたり、騎馬に飼い葉や飲み水を与えたりしている。姫の記憶がないことを除けば傍目には本当に仲睦まじい夫婦に見える。

 道中、寝るときは殿下は幕舎、姫は輿、別々に就寝する取り決めがなされている。だから、それはまだ全然先の話なのだけれど、こうなるとご懐妊はいつ頃などと少々下世話な心配も膨らんでくる。そうなったら私も乳母として早々相手を見つけないといけないわ。

 その日も輿の中でグラディアテュールに素敵な殿方はいらっしゃるかしら?などと益体もないことを考え、別行動をとっている姫の帰りを待っていた。今日はいつもより遅い気がする。一体どうされたのでしょう?

 やきもきしながら菜花の刺繍を施した山吹色の袍の裾を摘まんで揉みしだいていたらやおら外が騒がしくなった。「竜にやられた」「怪我の手当てを」「マナの補充は」といった聞き捨てならない言葉が飛び交う中、姫がようやく戻ってきた。

「どうかされたのですか」

 その姿を見てシャオチェは声にならない悲鳴が喉から出たのを自覚した。

 姫の瞳が涙にぬれていたからだ。



 竜に襲われて怪我をしたのは殿下で、姫に怪我がなかったのは僥倖だとは思う。姫に何かあったら多分私は取り乱していた。そんなシャオチェの心配をよそに姫は続ける。

「私、何もできなかった」

 シャオチェは肝を冷やす。

「出来なかった、と仰いますのは」

 まさか一緒に戦おうとしたんじゃ。想像してシャオチェは卒倒しかかった。

「私は、殿下が危険な目に遭っていたのに、ただ、見てることしかできなかった・・・・・・私に出来ることがあれば」

 シャオチェとしては心配極まりない。出来れば危険の及ばないよう大人しくしていてほしいのですが。そう言っても聞かないでしょうし。

「それでしたらマナを使って後方支援にまわるというのは」

「マナ?」

 シェリアル姫が小首を傾げる。

 可愛らしい仕草だけど、シャオチェは、何故姫がこんな反応をするのか一瞬訝しんだ。それから、思考を巡らし理由に思い当って愕然とした。

 ミアキスヒューマンにとってマナが見える。使える。それは当たり前の日常。今の姫はマナが見えていてもそれが何なのか知識がすっぽり欠落している状態なのだ。

 こんな大事なことを失念していたなんて。不甲斐ない。私事に現を抜かしていた私は侍女失格です。

 涙を堪えてシャオチェはマナの説明をして聞かせた。

「つまり、私たちにとって欠かせない生活必需品、というわけです」

「そうだったのですね」

 涙の跡も痛々しいけれど、前向きな姫の笑顔。

「ありがとう、・・・・・・シャオ、」

 シャオ、って。それ私の愛称ですよ姫。多分呼びやすいから、そう呼んだだけだと思いますけれど、記憶が戻っているわけではないのでしょうけど、私を愛称で呼んでくださった。つられてシャオチェも嬉し涙をこぼす。

「さ、今日は晩餐です、涙を拭いて、お髪を結い上げて。本日のお召は春緑に薄桃の袍など如何でしょう」

 いそいそと手水鉢を用意してまっさらな白布を浸して絞ると、姫の顔を丁寧に拭いて、着替えの支度を始めた。



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