第5話 運命の朝
陽が地平からすっかり登り切った頃。
神殿は拝殿と本殿、そして、かつて神からマナを託された神狼とサピエンスが住んできた住居が今は社務所として使われている。初代と呼ばれる彼らの一族が住んでいた時代には相当な大所帯だったのか、離れや別棟が沢山ある。晩餐をとった母屋の食堂もやたら広い。マナの入った黄色水晶を吊るした居間には華やかなフレスコ画が色鮮やかに壁を彩り、往時の賑わいを思わせる。アシルの国王夫妻、キンキェムの大公、そして俺と兄も、それぞれ客棟を用意された。だから、昨晩部屋を抜け出して偶然だけど姫と逢ったことは、侍女も含めて三人しか知らない。変な秘密を共有したもんだ。湧き上がるこそばゆい感情を楽しんでいると、樫で出来た扉がノックされて神官装束の狼子坊主が顔をのぞかせた。
「ダキア殿下、よろしいですか」
なにか困惑気味の目つきで声を潜ませる坊主。
「どうかしたか」
「アシル王女殿下の侍女が、なにやら王女の様子がおかしいと申されております」
姫が?
「皆様母屋の居間にお集まりです」
「わかった、すぐ参ると伝えてくれ」
壁一面に獅子と蛇の踊るフレスコ画の描かれた居間には、昨晩、晩餐の席にいた面々が揃っていた。
もともとアシルを介しての姻戚だから、キンツェムとはなんとなく距離を置きたいのが本音で、それはキンツェム側も同じ気持ちのようだ。アシルの国王夫妻を挟んで右に俺の兄、左にキンツェムの大公が座している。アシル国王夫妻の間、つまり席の真ん中にはシェリアル姫がいて、やれ何事もなさそうじゃないか侍女も大げさなと安堵したが、それも一瞬だけだった。
顔を上げて俺を見つめる姫の目つきがおかしい。恐怖と不安と心細さが占めている。昨晩感じた意志の強さも、影を潜めている。微塵もない。姿こそシェリアル姫だけどまるで別人だ。
後々知りえた情報を総合し落ち着いて考えるなら、この時の姫の心境は「朝起きたら知らない場所にいて半人半獣の人たちに囲まれて心細くなっているところに、今度は首周りに獅子の鬣を生やしたいかつい男が部屋に入ってきて肝が冷えた」といったところだが、今現在の俺はそんな事知る由もない。昨晩、偶然にも逢瀬のような形で胸中通わせた許婚が、俺を「全く見知らぬ存ぜぬあんた誰」と脅え震え上がっている。その姿に少なからずショックを受けた。
俺がこんな状態なのだからアシルの国王夫妻は憔悴しきりだ。生母であるシュクル御后は託宣を守らなかった私のせいだと自分を責め、アルハラッド陛下は御后を止めなかったことを後悔しているのか黙って俯いている。
この件に関しては俺は強く言い出せない。御后はシェリアル姫を一番よく分かっている女親だもの。青緑の侍女と同じくらい、いやそれ以上に婚約者との対面を楽しみにしている待ちわびている娘の姿を一番間近に見ているのだ。託宣を気にしつつも早めに合わせてやりたくなるのが親心ってもんだろう。
それに、仮に姫が晩餐の席にいなかったとしても夜中の散歩で俺と鉢合わせるのだとしたら、それはもう御后の先走りは関係ない。偶然のなせる業だ。大体泣いてわめいて解決するなら俺も泣くしわめくし、それで姫が元に戻るならはやいとこ思い出せと姫に詰め寄ってるところだ。
「ダキア殿下もお揃いになりました」
俺を案内してきた狼小坊主が下がると、入れ違いに姫の侍女が居間に入ってきた。こちらも涙と洟でぐしゃぐしゃで見るに堪えない有様だ。
アルハラッド陛下が憔悴した顔を上げ、力ない声で侍女を促す。
「シャオチェ、詳しく説明してくれるか」
「申し上げます」
侍女の話をまとめると大体こんな感じだったらしい。
夜が明け陽が昇る少し前。
「私シャオチェはうきうきとした足取りで磨き抜かれた大理石の回廊を小走りに姫が休んでいる離れに向かっていました。天気は雲一つない晴天。朝の日差しは白金色に眩く透き通って今日のこの日を祝福しているみたい。今日の婚礼は忘れられない素晴らしい日になるわ。私は離れの扉を開け、寝所の扉をノックしました。
「?」
返事がありませんでした。また部屋を抜け出した、あ、」
「抜け出した?」
口を滑らせたことに気付いた侍女が小さな悲鳴を挙げ、言葉を詰まらせ言いよどんだ。
聞き咎められても仕方ない失態だ。キンツェム大公が侍女を詰問し始めた。大公は二足歩行の虎の姿のニアミアキスで、そんなのがグルグルと威嚇のうなり声をあげて詰め寄ったら年若い小娘なんか恐怖で竦み上がるだけだろうに。
「抜け出したとは何事だ?」
「いえそれはあのその」
俺はこっそり助け船を出した。
「池を散策していたのですよ、僕は部屋から見かけた」
「そそそそそうですそうでございます、夜明かりが綺麗だと申されまして」
ふむ、と唸って大公は居住まいをなおした。
「確かに昨晩は蓮星が煩いくらい眩しかったな」
「続けて」
侍女に話を続けるよう促した。
「私は重厚な樫の扉を薄く開けて中の様子を窺いました。当時は高い地位の女性が住んでいたのでしょうか、四季の花が咲き誇る色モザイクの天井に、螺鈿と彫金の施された調度品、姫がお休みになられる美しい天蓋付きの豪奢な寝台など、全てサピエンスの職人が緻密な彫刻を施したのでしょう、とても優美で繊細なつくりの離れです。天蓋のおりたままの寝台に姫はいらっしゃいました。ですから紗を開けようと私は部屋に入りました。ですが、なんと言いますか、様子がおかしい気がしました。いつもでしたら部屋に入りました時点で「おはようシャオチェ」と声をかけてくださるのに」
そこで受けたショックを思い出したのか、侍女の視線が尖って虚空を見つめるような胡乱な目つきになった。
侍女も姫同様ほぼサピエンスと変わらない容姿だが、ミアキス要素が強い外見だったらさしづめ全身の毛を逆立て耳を寝かせているといったところだ。
「最初のうち、私は嬉しさで夢心地なのでしょうと思っていたのでございます。それが、四方を囲う薔薇色の紗を開けても、白絹の夜着もそのままで上半身だけ起こして。羽毛ふとんにくるまって惚けた表情で、白い花びらを一片、華奢な指でつまみ上げ虚ろな瞳でぼんやり見つめていました」
侍女がうう、と呻いて目から涙が溢れ出してボロボロ零れ落ちた。拭うことも忘れて唇を震わせ、後は堪えられないといった風に一気にまくし立てた。
「私が声をかけますと、「あなたは……誰?」、姫はそう返事をされました」
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