美しすぎるノンフィクション(Side:光梨)
出勤の準備をしていた
「ねえ、ちょっとだけネーム見てもらっていい?」
「ファンコミュ向けの今週分でしょ? いいよ、さらっとだし」
沙枝からタブレットを受け取り、漫画のネームを見ていく。
そして沙枝はフリーのイラストレーター、たまに漫画家である。漫画家といっても、有料会員制コミュニティでファンに向けて書いているのがほとんど――なのだが。
「……なんで"ひーちゃん"が襲い受けみたいになってるの、あの時期に私から行ったことなかったよね?」
「"ひーちゃん"はそういうキャラじゃんか。生真面目だけど実は性欲が強くて、我慢してたぶんも衝動に流されちゃうみたいな」
「まあ……岸野光梨じゃなくて"ひーちゃん"だしな」
沙枝――イラストレーター"さえみぃ"が会員向けに連載しているのは、自伝的百合エッセイ漫画である。ビアンカップルの体験を本人自ら漫画にするという話題性、そして性的なトピックも存分に描くというサービス性から、少数ながらも熱狂的なファンがついている。
「そもそもひーちゃんは私と似てないし、気にしても仕方ないか」
「光梨の可愛さを私の絵柄に起こすとこうなるんだよぉ」
沙枝と光梨の間にあったことをベースにしている、それは確かだ。しかし作者本人である"さえちゃん"はともかく、光梨にあたる"ひーちゃん"は本人とは似てもつかない美少女である。そして二人のやりとりも、事実に比べて演出はかなり足されており、百合っぽさに満ちている。
〈プライバシー保護のため、事実と異なる描写もある〉と沙枝は断っており、それも間違いではないが、ドラマ性のための演出はそれ以上に多いのだ。
「リアリティに目をつむれば問題はないよ、ひさ壁の人は相当盛り上がるだろうし」
ひさ壁。〈ひーちゃんとさえちゃんの家の壁になりたい民〉を略した、さえみぃのファンの愛称である。
「分かった、じゃあこれで進めるね……後リアリティは、昨日供給できたし」
「昨日? なんかあったっけ」
「作業配信してたら、光梨の寝言がね」
「え、嘘!? 恥ずかしいって言ったじゃん!」
「だって光梨の声が入るとめっちゃ盛り上がるんだもん、ひいては見隅家の収入になるから、ね」
「うう……お金の話を出されると……」
三人の暮らすこの家において、収入の半分以上は謙一の仕事からだ。スキルや学歴を踏まえるとそれが妥当で、謙一も特に不満は口にしてはいないものの、それなりに申し訳なさは覚えるのだ――お金の問題というより、浮気同然の行為に及んでいる負い目からだが。
しかし負い目といえば。リアルとフィクションの境を曖昧にしてファンに金を貢がせる沙枝のビジネスに、光梨だって加担しているので――などとモヤモヤしていると。
「ひかり」
「んっ」
沙枝は光梨の手を取り、左手の薬指を甘噛みする。「大事だから濡らしたくない」という口実で外している結婚指輪の跡に上書きするように――そこが気持ちいいという光梨の感覚を刺激するように。
「光梨は、心配しなくて、いいんだからね」
「……うん」
この手の話をするたびに引っかかる感覚に、今日もまた蓋をする。
光梨と"ひーちゃん"の最大の違いは、男性と結婚しているかどうかだ。さえみぃの描く自伝的漫画に、謙一を感じさせる描写は欠片もない。
それどころか、沙枝は仕事上の名義も手がけた作品も謙一に全く知らせていない。妹が妻との性的な関係を題材にして稼いでいるだなんて、謙一は夢にも思わない――はずだ。
でないと、光梨が困る。とてつもなく困る。
こんな裏切り方をしているのだ、せめて彼の前では良き妻でいたい。
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