神木 命 後編

目を合わせてはいけない。

再び目を合わせてしまったら、何かが始まり、

何かが終わるような気がした。

何かについては、分からないふりをする。

同居人がそうするのは、自分に対してだけで、

他の『花』を見ることは無かった。

感じるのは、自分に対して向けられる執着と羨望。

そして、ちょっとした狂気。


ああ、遂に来たと思った。

それは、暮らし始めてしばらくしてから。

仕事の準備をして、部屋を出ようと玄関へ向かう途中、

すぐ耳元で声を聞いた。

「今日も綺麗だ。」

いつのまに近づいてきていたのか、全く気が付かなかった。

なぜか、その声が怖くて振り向けなかった。

頭の先から踵まで、全身を舐めるような視線を感じる。

体の中まで探られているようで、ぞわぞわと悪寒がした。

振り返っては、いけない。目を合わせては、いけない。

「いってきます」

振り返らず、抑揚のない声で呟くとふいに手首を掴まれた。

そのまま向きを変えられ、顔を両手で包みこまれる。

動けずにいると、同居人は無表情で自分を見つめている。

目を合わせたくなくても、無理だった。

玄関の扉に追い詰められ無表情の顔がゆっくり、ゆっくりと

近づいてきて鼻先が触れそうな距離で止まった。

そのまま動かずに、時間だけが過ぎていく。

無表情なのに目だけは異様に見開かれていて、全身が震えるのを感じた。


『こわい。この人のことがこわい』


自分の中に、初めて怖いという感情が溢れる。

「あ…の、仕事におくれる…から…は、はな…して」

やっとのことで喉から絞り出した言葉は、からからに乾いて

すぐに消えてしまった。

同居人はまるで聞こえなかったというように、相変わらず動かない。

ただ、二人の呼吸音だけが玄関に響く。

もう一度声を出そうとした瞬間、同居人はすっと離れ廊下を歩いていく。

リビング前のドアに手をかけながら、能面のような笑顔で

「いってらっしゃい」

と、こちらに声を掛けドアに消えていく。

力が抜けて、玄関のドアに沿ってしゃがんでしまいそうになる。

けれど、気づいていた。

同居人が、ドアにはめ込まれているすりガラス越しに

こちらを見続けていることを。

玄関ドアの鍵を振るえる指であけ、逃げるように玄関を出た。

タワーの外に出て、ようやく呼吸が出来た気がする。

手が、今だに震えている。

怖い事は、この仕事をしていれば痛みを伴うものなら少なからず

経験していたが、体の内側から感じる恐怖は初めてだった。

多少の痛みなら、時間が経てば消える。

多分、お客といる方が、ずっと安心していられる。

そんな考えがその日の行為に出たのか、お客はえらくご機嫌になり、

予定になかったお小遣いまではずんでくれた。

でも、あの恐怖で生まれたお金のように思えて、手元に置きたくなかったから、

菊池さんに全額渡した。

「さすがだな。やっぱり売れっ子はちがう。」

菊池さんは呑気に受け取って、ジャケットの内ポケットにしまい込む。

同居人は、昼間仕事に出ているから今は部屋にいない。

触れられた事を菊池さんに話そうか迷っているうちに、電話に出てしまった。


それから、同居人は、より自分を見つめるようになった。

ただ、じっと見つめられるだけ。

それはそれで、寒さと苦痛を感じる。

けれど、行く当てもないからここから抜け出すという考えも起きなかった。

息苦しい毎日が、しばらく続いたある日の朝。

部屋に戻る途中で、アキさんに出会った。

自分が出会った大人の中で、唯一温かさを感じる人。

何度か会ううちに、SNSで遣り取りをするようになって、心が弾む気がした。

「花」の子にも、雰囲気が変わったと言われた。

そのころに、育て始めた水仙は、花壇に植えられたものほど茎は長くないが、

綺麗に花を咲かせている。


キスをしたあの日から、アキさんと連絡を取るのを躊躇っていた。

本当は、今すぐにでも会いたい。

でも、こんな自分が、あの人を想っていいのだろうかと重くため息をつく。

暫く、同居人の存在を忘れていた。

また、同居人の視線が、より濃く纏わりついたような気がした。


その日の仕事は、夕方に終わった。

腰の重さにぐったりしつつ、気だるい感じでのろのろと足を動かす。

お腹が空いたな。

そう思って、スーパーに寄ってお弁当でも買おうかと足を向けた。

入り口の手前で足が止まる。

スーパーの入り口からアキさんが出てくるのが見えた。

小さめのバッグを手に、大き目のショッピングバッグを肩から下げている。

声を掛けそうになった時、男の人がアキさんの隣にいるのに気付いた。

「重い方持つよ。」

「サンキュ。じゃあ、行こう。」

そんなやり取りが聞こえてきて、二人は歩き出していた。

方向は、タワーの方。

自分の腹の虫が鳴いていたことも忘れて、二人の後を追っていた。

会話は聞こえない程度の距離感で付いていく。

時々、大きな笑い声が聞こえて実に楽しそうだ。

二人はやはり、タワーに入っていった。

急になんとも言えない痛みを心に感じて、暫く動けなかった。

部屋に、戻りたくない。

でも、今の住処はここだ。

いやいやながら、右のタワーへ進む。

部屋に戻ると、ほぼ同時に同居人が帰ってきた。随分と早い。

気持ちを悟られないように、平静を装ってリビングの

ソファーの端っこで丸くなる。

同居人は、只じっとこちらを眺めている。

アキさんに、会いたい。

あの、温かな笑顔が見たくなる。

でも、アキさんにはあの人がいる。

さっきのアキさんは、見たことない笑顔で笑っていた。 

本当に、楽しそうだった。

隣にいた男の人が、うらやましかった。

声が、聴きたい。

ふう、とため息を一つ。


それが、何故か同居人のスイッチを入れるきっかけになってしまった。

「すきなひとができたの?」

抑揚のない、けれど、怒りを宿した声が聞こえてくる。

見上げれば、あの時の同居人が目の前に立っていた。

目を、合わせてしまった。

同居人は、笑顔を作ろうとしているようだったが、

歪にゆがむだけで逆に恐怖しか感じない。

「だめだよ。君は綺麗なお花なんだから。

 感情を持っちゃいけない。

 ただ、美しくいるんだ。

 何かあった? 

 もしかして、左に住んでる。あの女?」

最後の言葉に、なぜか涙が零れた。

そうだよ。俺は、アキさんが好きだ。

その様子に、同居人は声を荒げる。

「あの女だけは、絶対にダメだ!絶対に」

「おい、どうした?」

菊池さんと同居人の横をすり抜け、荷物を掴んで玄関へ急ぐ。

その日の夜は、何も考えたくなくて、繁華街辺りを歩き続けた。

疲れ果て、大き目のフリースペースがあるコンビニへ入り席に着く。

気が付くといつの間にか眠っていて、その時にようやく、

スマホが無い事に気が付いた。


あの部屋に戻りたくはなかった。

けれど、戻るより仕方ない。

アキさんとの接点を、失いたくない。

平日のこの時間なら、相原も居ないはず。

しかし、リビングの前で絶望した。

相原が、リビングで誰かと話す声が聞こえてくる。

何か、『あの女』『脅す』という言葉が聞こえてきて心拍数が上がる。

嫌な、予感がした。

ゆっくりとドアを開ける。

相原が、俺に気づかず話し続ける。

通話が終わると、

「秋保 幸も、菊池も、殺してやる。

 ミコトと二人で、ずっと暮らすんだ。」

まるで呪いの言葉を呟く様だった。

悦に入った相原は、未だに俺が居ることに気が付かない。

アキさんを、殺すだって?

そうして、俺と二人で暮らすだと?

そんな事、絶対にさせない。

こいつを止めるために、どうしたらいい?

こいつの、俺への執着をなくすには…。

キッチンにある、ナイフセット。

キッチンへ走り、ペティナイフを手に取ると自分の首に刃先を向けた。

「アキさんを殺すなんて、許さない。

 誰が、お前のものになんてなるか!」

「ミコト? どうして、そんなこと言うの?

 二人で、ここで暮らそう?

 もう、誰かに抱かれなくていいんだよ。

 ミコトは、僕の美しい花としていてくれればいいんだ。」

「だから、それが嫌だって言ってる!」

相原の顔が、あの無表情に変わる。

「ミコト。危ないから、ナイフ渡して。

 少しでも、傷が付いたら大変だ。」

無表情のまま、俺に近づいてくる。

「傷が付いたら、大変だよな。

 特に顔なら、尚更。」

相原の目が見開かれる。わなわなと体が震えだす。


どうか、あなたを守りたまえ。


俺は、ナイフを右に持っていき、斜め上から一気に下へスライドさせた。

顔の右側が一気に熱くなって、ぬるりとした感覚が流れ落ちていく。

「やめろおおおおおお。」

相原がこちらへ走ってくるから、見えない様に目を閉じる。

相原が、俺の首を両手で締め上げる。

「なんで、なんでそんな事する。

 綺麗な顔が、傷ついた。どうして。」

抵抗はしない。ナイフが手から落ちていく。

だって、これでもうアキさんを殺す理由はなくなったはず。

苦しいけど、これでアキさんを守れる。

やがて、呼吸が出来ずに頭がぼうっとしてくる。


アキさん。好きになって、ごめんね。 

でも、貴女を好きになって良かったよ。

アキさん、大好きだよ。


一番嫌いな人間に殺されようと、大切な人を想いながら、死ぬんだ。

自分には、これが一番幸せな死に方だ。

最後に願いが叶うなら、どうか神様。

俺を、こいつを呪う糧にしてください。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミコト ゆーすでん @yuusuden

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ