神木 命 中編
タワーでの暮らしにも慣れた。
けれど、あいつが居る。
菊池さんは、
「お前の稼ぎから、相原にも手間賃払っているから心配すんな。
何か言われたら、俺に言え。」
と、言いながら自分の手取り分を自然にジャケットに収めた。
あいつに会いたくないから、部屋に居る時は『衣裳部屋』に籠った。
風呂も、あいつが仕事に行っているうちに済ませておく。
風呂や洗濯機などを使った後は、出来るだけ綺麗に掃除を
しておくようにした。
『花』は、俺だけでは無かった。
菊池さんが声を掛けた女の子や男の子が、何人かいた。
当然、『衣裳部屋』は俺専用ではないから、他の『花』とも顔を
合わせることになる。
一言二言、話すこともあった。
こういう事をしていると、自然と探り合わないのも
暗黙のルールになっている。
たわいもない話で笑いあうと、楽しい。
それでもやはり、ここは息苦しい。
朝は必然的に、同居人が出勤するまで引きこもる。
それでも、『衣裳部屋』には絶対に入らないというルールだけは
守られていた。
俺が部屋に居る時は、毎回部屋の前で様子を伺い「いってきます」
と呟いて出ていく。
ドアが開けられ、閉じられて鍵が閉まる音がしても信じては
いけなかった。
前に一度寝ぼけて出て行って直ぐに部屋を出ると、
あいつが玄関に立っていた。
慌てて部屋に戻ると、足音が近づく。
「ミコト…。怖がる顔が見れて嬉しいよ。」
扉の外では、あいつが薄ら笑いを浮かべて立っているのだろう。
やがて、また足音が玄関へ向かい扉の音が聞こえて鍵が閉まる音。
心臓が、なかなか静まってくれない。
ゆっくりとドアを開けて確認する。
今度は、本当に仕事へ行ったらしい。
時間を確認すれば、午前八時丁度。
あいつは、病気みたいに毎日同じ時間に合わせて生活する奴だ。
調べたくもないが、生活パターンを把握しておくことにした。
ある仕事終わりの朝、あいつが仕事に行くまでとタワーのすぐ隣にある
小さな公園のベンチで時間を潰していた。
公園の脇にある小道に色んな花々が植えられている。
様々な種類がある中で、一種類の群れに目が行く。
他の種類は地面に近い背丈なのに、その花達は地面から上へ上へと
葉や茎を伸ばし、こちらを見るように先を曲げ花を付けている。
白と黄色または黄色だけの花がある。
ふと、花の名前が気になった。
スマホを起動し、カメラで写すと『ピコン』と音が鳴って結果を知らせる。
『水仙。雪中花とも呼ばれる。』
画面をぼんやり眺めていると、小道と垣根の先に見えるエントランスの
自動ドアから人が出てきた。
女の人。足早に歩く姿。
背筋が伸びて、色白で丸い顔が覗く様は水仙のようだと思った。
遠くなる背中を目で追う事が止められずに立ち尽くす。
時計を見れば、あいつの出勤時間だ。
水仙達を一瞥して、部屋に帰った。
あの日以降、朝帰りの日は公園のベンチに行くようになった。
なんでか、あの人が歩いていく様子を見るのが楽しみになっていた。
声を掛ける事も無い。
ただ、あの人が歩いていく姿を見たい。
いつもの如く水仙の様な立ち姿で去っていく姿を見るだけで、
なぜか心が躍った。
見つめるだけなんて、あいつと同じことをしているじゃないか。
一瞬体が固まる。
いや、あいつとは違う。
この心の高まりが、一体何か分からない。
その頃から、水仙を育て始めた。
その時は突然訪れた。
「ねえ、君。たまに見かけるけど、ここら辺に住んでいるの?」
振り向くと、そこにあの人が立っていた。
不意打ち過ぎて、ぽかんと口を開けて固まるしかなかった。
「だ、大丈夫? 驚かせちゃったね。」
腰をかがめながら、眉毛を八の字にして心配そうにしている。
「あ、いや。ぼーっとしてた。ごめんなさい。」
「こちらこそごめんね。一人の時間を邪魔したね。
寒いから、風邪ひかないようにね。」
優しい顔に戻り、それじゃと手をあげてあの人はタワーへ歩いて行った。
今帰りということは、夜勤もある仕事なのだろうか。
もう少し、話したかった。
でも、初めて声が聞けた。
俺の事、気づいていたんだ?
なんだか、妙だ。心の中がむず痒い。
今までもこの時間が好きだったが、この日からもっと好きな時間に変わった。
その後も、何度か挨拶する機会があった。
多くは告げず、右のタワーに住んでいる事だけは伝えていた。
挨拶するたびに笑顔を見せてくれて、それだけで嬉しかった。
俺のことを、性的な対象として見ない大人もいるんだと、
気づかせてくれた人。
俺は、その人のことがもっと知りたいと思うようになっていた。
「あの…」
「ん? 何? どうしたの?」
この日も、夜勤明けだというあの人とまた会えた。
勇気を振り絞って聞いてみる。
「名前、教えてもらえませんか。」
「あきほ さちだよ。じゃぁ、君の名前も教えてもらえる?」
「あいは…、神木 命。神様の木に命って書いて、かみき みこと。」
いつもは『相原』を名乗るが、この人には本当の名前を伝えたかった。
俺の名前を伝えた後、一瞬驚いた顔をしていたが、
「ミコト…、素敵な名前だね。」
そう言って、俺にまた笑いかける。
「アキさん…て、呼んでいい?」
本当は、下の名前で呼びたかったが妙に恥ずかしくなった。
「うん。私は、ミコト君と呼んでいいかな。
改めて宜しくね。ミコト君。」
アキさんの右手が差し出される。
手を握ると、ぐっと握り返される。
初めて、アキさんに触れることができた。
暖かくて、柔らかい手。
その手が離れていくのが、なんだかとても寂しかった。
もう一度、勇気を出してみる。
「それと…、アカウント教えてもらえませんか?」
「ん? あ、もちろん、いいよ。準備できた。
よし、QRコード読み込んで。」
アプリを開き、スマホをかざすと『アキ』の名がスマホに現れる。
追加の許可が出来たことを確認して、思わず笑顔になる。
「そんなに喜んでもらえるとは、嬉しいな。」
笑顔の俺に、アキさんも笑っている。
「ありがとう、アキさん。俺も、嬉しい。」
「そろそろ、学校の時間でしょ? 家に戻らないの?」
「あぁ、俺、通信制の学校に通ってるんだ。
だから、割と自由っていうか…。」
「そっか、だからか…。気になってはいたんだけど、聞くに聞けなかった。」
アキさんの顔が少し曇ったきがしたけれど、気のせいだったのかな。
いや、気のせいじゃない。
ごめんね。アキさん。嘘なんてつきたくないのに、嘘をつかざるをえない。
俺が、本当の家族と住まず学校にも行かず、大人たちに体を売って
生活しているなんて。
アキさんには、知られたくない。
アキさんは、悲しそうな眼で俺を見た。
ああ、そうか。アキさんは、俺がしている事を知っている。
俺が、体を売っているって。
それでも、俺に付き合ってくれている。
俺を、思ってくれている。
俺を、花じゃなく、俺として見てくれる。
何故か、涙がこぼれる。
下を向く俺の頭を、優しく撫でられる。
「君は、このままでいいの?」
掛けられた言葉は、思ってもみないもの。
「ここから、抜け出さない? 君の人生を、生き直さない?
今の状況を変えてみない?」
アキさんが、真っ直ぐに俺を見つめている。
この瞳を、ずっと見つめていたい。
でも。
「アキさん、ごめんね。
俺は、ここから抜け出す必要なんてないよ。
ここが、俺の居場所なんだ。
ここじゃなきゃ、俺は生きられない。」
「そんな事無い。絶対に。」
アキさんの目が、俺を見ている。
それだけで、救われる気がする。
アキさん、ありがとう。
そう言ってくれるだけで、嬉しいよ。
俺は、アキさんを抱き寄せた。
アキさんの腕が、俺を離そうとするのを力づくで止める。
あなたが、欲しい。
ふと上を向いたアキさんに、キスをする。
唇を押し付けて、拒む体を抱きしめる。
暫く後に、アキさんの体の力が抜けた。
瞳が閉じられた。
後頭部を抱える様に抱きしめ直し、もう一度キスをする。
角度を変えて、何度も。
こんなに心地いい音は、聞いた事が無い。
アキさんとのキスに、夢中になっていた。
だけど、俺がしている事は許される?
俺は、何て事。
ふと離れると、悲しそうな顔。
「あ…。俺、突然…。」
「ごめん、私。帰る。」
俺の目を見ずに、離れた。
動揺を隠せないまま歩いていく、アキさんの背中を見送る。
アキさん、ごめんね。
でも、初めて自分からこの人が欲しいと思ったんだ。
止められなかった。
少しの後悔と欲望を抱えて、部屋に戻る。
もう、会えない事も知らずに。
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