報道のジレンマ 12

 ちくしょう、もっと距離を詰めて追跡しておけばよかった。

 車椅子は、壊れた柵の隙間に向かっていた。もうすぐ、崖の先端に車椅子が届いてしまう。

 梶山靖子は、笑顔で、また母親に話しかけた。

「一緒に、いこうね」

 そう、唇が動いた気がした。

「待って! 梶山さん、とまって!」

 とまらない。むしろ加速している。

「だめだって。だめだ! 死ぬな!」

 車椅子の小さなキャスターが崖から零れる。母親の足が空に浮いた。車椅子が前方に傾いてゆく。

 落ちる。

「うあああぁ――――――――――っ!!」

 俺は叫びながら減速せずにそのまま車椅子に突っ込んだ。車椅子を身体と柵に挟んで止め、身を乗り出して腕を伸ばし、空に投げ出された母親を抱きしめる。後手に柵を引っかけた数本の指に渾身の力を込めて、身体を地上に戻した。

 勢いのまま、俺は背中から地面に転がった。車椅子の手押しハンドルを握っていた梶山靖子も反動で尻餅をついていた。支えのなくなった車椅子が崖の下に落下していった。遠くでガシャリと音がする。

 俺はぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。

 息が苦しい。汗が吹き出し、目に入ってしみる。

 車椅子や地面に勢いよくぶつかったので、身体中が痛んだ。俺は梶山靖子の母親を抱いたまま、仰向けになって大きく息をはいた。

(……なんとか、間に合った)

 心臓がこれ以上ないほど激しく脈動している。

 でもこれは、生きている証しだ。

 母親を抱きしめたとき、俺も崖の向こうにかなり身を乗り出した。今思うと、崖下に落ちていてもおかしくなかった。

(こういうのを、火事場の馬鹿力って言うんだろうな)

「うう、いやだ、いやだ」

 腕の中の母親は驚いて固まっていたのだろう。今までは大人しくしていたが、唸りながら暴れだした。他人に抱かれていると気づいたのかもしれない。

「靖子、助けて靖子」

「お母さん、大丈夫よ」

 梶山靖子も硬直していたのか、尻餅をついた状態から微動だにしていなかったが、母親に呼ばれて、這うように近づいてきた。俺から母親を引き取ると、抱きしめて、子供をあやすように頭をなでた。母親が大人しくなる。

「梶山さん、こんなこと、もうやめてください」

「……」

 梶山靖子は、黙って俺を睨みつけた。

 なぜ邪魔をした。恨んでやる。

 窪んだ昏い瞳から、そんなメッセージが読み取れた。また背中に冷たいものが走った。それほどまでに、深い憎悪をはらんでいた。

「死んではだめです。他に方法があるはずだ」

「……なにも知らないくせに」

 梶山靖子が口を開いた。乾いた喉から絞り出すような、かすれた声だった。

 その声も、聞き馴染んでいるものから変わっていた。介護の疲弊は、声帯まで変えてしまうのか。

「少しは知っています。俺はマスコミの人間なんです」

 俺が報道関係者だと聞いて、梶山靖子の表情に怯えが混じった。この状況を公表されることへの恐れだろう。

「お母さんを大事にされていることも知っています。東京に呼び寄せたせいで認知症になったと自分を責めていることも、だから介護を一人で抱えていることも、知っています」

 梶山靖子は瞠目して俺を見た。なぜ知っているのかという顔だ。あまり人に話していないことなのかもしれない。情報源が美容師さんだと思い当たるかもしれないが、今は置いておこう。

「人を頼ってもいい。介護サービスを使ってもいいじゃないですか。誰も梶山さんを責めませんよ。……お母さんだって」

 梶山靖子は首を振った。介護に固執している。自分で自分が許せないのだろう。

「部屋で、お母さんと二人きりでいると、息が詰まりませんか? 介護仲間を作るだけでも違いますよ」

「……」

 少しは心が揺れているようだった。

「俺、提案があるんですけど、いいですか」

 梶山靖子は、落としていた視線を俺に戻した。先ほどよりも落ち着いた表情をしている。

「俺たちが今回のことを書かなかったとしても、きっと別のマスコミがきます。隠すほど人は知りたがるし、好き勝手な噂を流すでしょう」

 二階堂武史のときだってそうだった。

 梶山靖子は見えないほど薄くなった眉を寄せた。

「だから、俺たちのインタビューを受けてください」

「インタビュー?」

「はい。本当は俺たちも隠し撮りした写真を載せて、直撃したコメントを載せるつもりでした。もちろん、原稿確認なんてありません。周囲の話なんて、聞いた言葉をそのまま載せても、事実かどうかは梶山さんしかわかりませんよね」

 母を抱きしめながら、梶山靖子は俺の言葉の続きを待っているようだった。

「インタビューなら、原稿確認もありますから、梶山さんの不本意な言葉は載りません」

 俺は、枯れ枝のような細すぎる手を取った。

「日本は、これからもっと要介護者が増えます。介護施設も介護士も足りません。親を大事にしたい人ほど、梶山さんのように追い詰められてしまうと思うんです。だから、梶山さんの経験を、紙面を使って、たくさんの人に伝えていただけませんか?」

「私の、経験……」

 俺はうなずいた。

「その後は、講演会などで介護経験を伝え続ける方法もあります。講演会の間にお母さんから目を離すのが心配なら、傍に置きながら講演をしてもいい。実際そうやっている人もいます。梶山さんが介護をしていると知っていれば、それを踏まえた仕事のオファーも来ると思いますよ。現場にお母さんを連れていって、撮影の間、誰かに見てもらう事も出来るはずです。お子さんをスタッフやマネージャーに預けている俳優さんがときどきいるでしょ。同じことだと思いますよ」

 今回の取材のために調べたにわか知識を総動員して、梶山靖子の表情の動きを見ながら、俺は説得した。

「あえて言います。あの檻から出ましょう。充分すぎるほど、梶山さんは償いました。それにきっと、初めから、お母さんはあなたを恨んでいません。それはあなたが一番、知っているんじゃないですか?」

 俺は手にしていた細い手を両手で包んだ。こんなにか細い手で、誰にも頼らず、何年も、たった一人で母親を介護してきたのだ。どれほどの苦労があったことだろう。

 梶山靖子は強く母親を抱きしめた。瞳から涙があふれる。

「……お母さん、ごめんなさい……、ごめんなさい……」

 空からも滴が落ちてきた。

 俺たちは小雨に降られながら、しばらくその場から動かなかった。

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