報道のジレンマ 11

「ドア、開きました」

 翌朝。今日は雨が降り出しそうな曇り空で、若干肌寒かった。昨日と同じ感覚で服を選んだので、鳥肌が立ってしまう。

 梶山家から若干離れた塀の影で、朝六時から紫子さんと張っていると、七時少し前に車椅子を押した女性が家から出てきた。

「出てきてよかった」

 紫子さんが安堵したように、小さく呟いた。

「そうですね。これ以上待たされたら、風邪をひきそうでした」

「そういう意味じゃないけど」

「えっ?」

「なんでもないわ」

 紫子さんに顔を向けると、まっすぐに二人の様子を見つめていた。

 スロープを降りてきたところで梶山靖子の顔が見えた。

 ポスターなどで見慣れた顔と、相貌が変わっていた。げっそりとやつれ、目が落ち窪み、袖から見える手は傷だらけで骨と皮だけのような細さだった。年齢も十才以上老けて見える。梶山靖子と言われていなければ気づかなかっただろう。

 俺は家から出てきた瞬間からスロープを降りるまでを連写した。

 俺たちは距離をあけて、気づかれないように後を追った。行き先は丘の上の公園だとわかっているので気が楽だ。しかも相手は、歩く速度よりも移動が遅い。

 同級生の美容師が、梶山靖子は朗らかだったと言っていたが、確かにその通りだ。時々母に顔を近づけて、笑顔でなにか言っている。

 聞き込みでは、朝の散歩は無表情だとかつらそうだと異口同音に言っていたので、ここ最近で梶山靖子の気持ちか、母親の容体が変わったのかもしれない。

「それにしても、よく話しかけてますね」

「そうね」

 ただ車椅子を押しているだけなら、真後ろにいる俺たちは後頭部しか見えないはずなのだが、母親の耳が遠いのだろうか、必ず顔を近づけて声をかけるので、梶山靖子の横顔が見えるのだ。その仲睦まじい様子もカメラにおさめた。

 いよいよ公園が近づいてきた。

 本来は大した距離ではないのだが、やせ細った梶山靖子が車椅子を押しているので、なおさら進みが遅い。しかも丘なので、緩いとはいえ坂道が続く。仕事でなければ、見かねて押すのを手伝っていたかもしれない。

 また、梶山靖子が母に話しかけた。母は小さくうなずいている。

「なんか、さっきから、同じような口の動きをしている気がするんですよね」

 何度も同じ言葉を言っているのか。

 でも、なんと言っているのだろう?

「そうだ。紫子さん、読唇術ができましたよね」

「まあね」

「梶山靖子は、母親になんと言ってるんですか?」

「さあねえ」

 なぜか紫子さんははぐらかした。

 俺が気になったくらいだ。紫子さんはとっくに口の動きを読んでいるに違いない。

「もう知ってるんですよね」

「……」

 紫子さんは答えない。

「教えてください」

「教えたくない」

 紫子さんは下唇を噛んで、迷うように俺を見上げた。思わず俺も眉間にしわを寄せた。

(なんですか、その表情は)

 こんな歯切れの悪い紫子さんは初めてかもしれない。どうして、親子の会話を俺に教えたがらないのだろう。「今日は冷えるね」とか「景色がいいね」なんて、たわいない内容ではないということか。

 梶山靖子たちは公園に入った。

 公園と名がついているものの、遊具はない。緑が広がる広場のようだ。公園の先端に、街が一望できる展望スポットがある。梶山靖子は、まっすぐそちらに向かっていた。

「また言ってる。なんだか、すごい笑顔だな」

 俺はシャッターを切った。

 ファインダーを覗き、ズームにした瞬間、全身の体毛が立ち上がった。さっきの寒さでの鳥肌とは比べものにならない悪寒が走る。

 それは、狂気の笑顔だった。

「紫子さん、教えてください。梶山靖子はなんて言ってるんですか!」

 紫子さんは小さく息をはいた。

「『お母さん、もう少しだから』『今日まで、よく頑張ったね、偉かったね』『今日は誕生日だから』『楽にしてあげるからね』」

 おいおいおいっ。

「もっと早く教えてくださいよ!」

 車椅子は、丘の先端に到着しそうだった。展望スポットには当然、柵が設置されている。

 しかし、一部破損していた。

「なんで壊れてるんだ」

「報道のジレンマ」

 紫子さんが俺を見る。

「教えたら、ボヤオはとめるでしょ」

「当然です。これ持っていてください!」

 俺はカメラを紫子さんに押しつけて全力で走った。

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