報道のジレンマ 2

 次に連れて行かれたのは、メンズ専門店ばかりが入ったファッションビルだった。

「今までの寝間着みたいな服は、すべて家で着るように」

 寝間着みたいだと思われていたのか。

「服は経費で落ちないけど、確定申告で使えるから、レシートでいいから保存するようにね。確定申告の話は希望があれば改めてしてあげる。はい、これとこれとこれ、試着してきて」

 話しながらも、紫子さんが流れるような動作で選んだ服と共にフィッティングルームに押しこまれた俺は、値札を見て目を疑った。いつも買っている服の値段と、一桁違った。

 当然、支払いは全部自分持ちだ。俺はカードの上限額と所持金を確認する。アドバイスはありがたいけど、天井を伝えておかねば、俺の生活費が危うい。

 こうして服と靴を購入した。今後の課題として紫子さんおすすめの鞄を下見して、ショッピングタイムは終わった。

 車とカメラ以外は十万円以上する買い物をしたことがない俺にとって、刺激的な時間だった。あらゆる意味で。

 しかしおかげで、散々「野暮ったい」と言われていた理由がわかった。センスのない俺でも、ビフォー・アフターが相当違うのは理解できる。

 これが都会人というものかと、神奈川の中でも田舎で育った俺は、垢抜けた己の姿を鏡でしげしげと見てしまった。

「今日一日で終わっちゃダメよ。キープしてね」

「はい、努力します」

 自信はないけど。

 今までは清潔でさえあればいいと思っていた。

(身なりを整えるということは、時間と手間がかかるものだったんだな)

「じゃあ次は、白金に行くわよ」

「えっ、まだどこかに行くんですか?」

 思わず声に出すと、紫子さんは細い眉をつり上げた。

「別に、私は帰ってもいいけど」

「すみません、ごめんなさい。よろしくお願いします」

 俺は大きな図体を折り曲げて、ペコペコと頭を下げた。見た目だけ整っても、格好つかない。

「ネタの取り方をレクチャーするって言ったでしょ。やっと今、その準備が終わったの」

 これからが本番ですか。

 俺たちはタクシーで白金のイタリアンに向かった。いつの間にか日が落ちて、ディナータイムになっている。

 豪邸ばかりが立ち並ぶ閑静な住宅街に、これまたいかにもな瀟洒なイタリアンレストランがあった。

 予約をしていたのだろう、紫子さんが名乗るとテーブル席に案内された。その名前は聞き慣れない苗字だった。紫子さんは偽名を使っているようだ。

 給仕の物腰は柔らかく、上品で手厚い。テーブルごとの距離が遠く、贅沢なレイアウトだ。隣の席の会話はほとんど聞こえない。どこを切り取っても、高級感に溢れている。

 こんな高級そうな店に来たのは初めてだった。俺の手に冷や汗がにじんだ。

(やばい。絶対に高い。もうこれ以上は払えない)

 手慣れた様子でオーダーを伝え終えた紫子さんに、「手持ちがないので、会計は後日払います」と告げると、「経費で出るから」とあっさり言われた。

「私だって、一人二万円以上するような店にプライベートじゃ来ないわよ」

「二万円……!」

 俺の一月分の食費じゃないか。

「社長の事務所、太っ腹ですね」

「うちじゃないわよ、出版社が払うの」

「出版業界って厳しいって聞きますけど、意外に余裕があるんですね」

「ないでしょ。でも週刊誌の場合は、こういう潜入の経費をケチるとネタが取れないし、ネタが取れないと部数が減る。痛し痒しなんでしょうね」

 紫子さんは他人事のように淡々と話す。

 店からネタを取るためには常連にならなければいけない、の法則だ。俺もいくつかの店に通っていて、それはすべて経費にさせてもらっていた。有益な情報を取れないとお金ばかりかかるので、申し訳なくて胃が痛くなる。

「ボヤオはまだ、このレベルの店に通ったらダメだからね。どうせ著名人がいても気づかないでしょ」

「来ませんよ」

 二千円の小料理屋でさえ情報が取ない申し訳なさに胃が痛くなるのに、二万円かけてネタが取れなかったら、俺は絶対にハゲる! ストレスを抱えると十円ハゲができる体質なのだ。

「ネタは、取れない時は取れないわ。編集者は財布だって思っておけば?」

「それはさすがに、ちょっと……」

 紫子さんは恐ろしいことを言う。

「どうせ向こうも私たちのこと、ウだって思ってるから」

「ウ?」

「鵜飼いの鵜。鵜を放って、鮎取ってこい! って感じね。で、全然取れないと、切り捨てられるわけ。そのための外注だもの」

「世知辛いです」

 俺は顔を顰めて、思わず後頭部を押さえた。

(どうかハゲませんように)

「でも、スクープ取れてるうちは大事にしてくれるわよ。編集者と上手くやっていくためにも、私たちは走り続けなきゃいけないの」

 シャンパンと前菜が運ばれてきた。俺は酒が弱いことを紫子さんは知っているから、酒はこの一杯だけだろう。

「今日は俺のために時間を作ってくれて、ありがとうございます」

 グラスを掲げると、紫子さんは驚いたように大きな瞳で俺を見た。それから、少し頬を染める。

「何度も言わなくていいわよ」

 あ、照れた。

 珍しい紫子さんの表情に、俺は少し嬉しくなった。

 俺たちは軽くグラスを合わせた。小気味のいい音が小さく鳴る。

 シャンパンを一口飲むと、舌の上で蒸発するように気泡が弾け、甘い香りと味が広がった。一気に顔が熱くなる。これ、結構アルコール度高いな。

 お酒の味はむしろ好きなのだが、普段はすぐに酔って寝てしまうから控えていた。急な仕事で車を出さなければいけない事も多いのだ。

「ボヤオ、周りの客を見て、どう思う?」

「周りですか?」

 高級店というフィルターがかかっているせいか、みんな金持ちそうに見える。あとは、年齢層が高めで、五十代以上が多い気がした。二十代らしき客は俺たちだけで、間違いなく最年少だろう。

 紫子さんに伝えると、「年齢は仕方がないわね」とうなずいた。

「服装はどう?」

「特に俺たちと違いは……あっ」

 俺はさっき購入した服の中から、ウィンドウペンチェックのネイビーのテーラードジャケットと、細身のホワイトデニムを合わせていた。いわゆるスマートカジュアルというやつだ。紫子さんも、いつもよりフォーマル寄りの青いワンピースを着ている。

「紫子さんと会った時の服装のまま来ていたら、俺、浮いてたってことですね」

 紫子さんはうなずいた。

「浮くってことは、異物とみなされるわけでしょ。店員だって警戒するよね。“なぜコイツは、ここにいるんだろう”って。それじゃあ、本来口が軽い人だって黙ってしまう。まったく成果が出ないってこと」

 俺はいままで通った店を思い出した。

 俺の性格もあるだろうけど、今まで上手く馴染めた店は、下町の地元に密着したような小料理屋とか、祖父くらいの年齢の大将がやっている寿司屋とか、庶民的な店ばかりだった。若者で賑わうクラブやバーは、話しもなかなか続かなかった。

 店によって服装も、できればキャラクターも変えるくらいじゃないと、“異物”になってしまうのか。

 俺は目から鱗が落ちたような表情をしていたのだろう。紫子さんは艶やかに笑った。

「容姿が大事だって言ってた意味、わかったでしょ」

 俺はうなずきつつ、下げた眉を指で押さえた。

「ネタが取れなかった原因はわかりましたが、クラブやバーは、やっぱり苦手かもしれません」

 そういうところにこそ著名人が行くってことはわかっているが、そもそも俺は酒が飲めないし、大音響の中で騒ぐのも好きじゃない。

「そういう場所が好きな友達と行けば浮かないわよ。パリピはいないの?」

 パーティ・ピープルか。俺は首を捻った。思い浮かばない。やっぱり、似た者同士が友達になるんだな。

 それに、学生時代は浅く広い付き合いだったので、あまり友達が残っていなかった。

「人脈は本当に大事よ。まあ、無理なことばっかり頼んでいると、友達をなくすんだけどね」

 紫子さんは遠い目になった。相当、友達を失っているのかもしれない。

(あらゆる意味で、身体を張る仕事なんだな、これ)

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