スタジオカメラマンと報道カメラマン 9
話していると、あっという間に海老原のマンションに到着した。四十五階まである、いわゆるタワーマンションだ。
「このマンションのエントランスは一カ所だけ。ただ、海老原はだいたい車で出かけるから、すぐ近くにある地下駐車場の出入り口も注意して見ていて」
そう言って紫子さんは、海老原の車種とナンバーを教えてくれた。俺は忘れないように携帯のメモ帳に保存する。
「車のナンバー、暗記してるんですか?」
「旬の人だけね。二百台分くらいは暗記してるかな。パソコンに記録している台数は千台近くある」
「そんなに!?」
「感心してないで、仕事で知った車のナンバーや著名人の住所は記録しておくこと。フリーでやっていくなら、情報は財産になるんだからね」
俺はうなずいた。さっきは海老原の住所も暗記していたし、この人の頭には、どれだけの情報が詰まっているのだろう。
「十時半を過ぎたわね。テレビ局に赤間アナを迎えに行くなら、そろそろ出てきてもいいんだけどな」
紫子さんがちらりと腕時計を見る。ブランドに疎いのでわからないが、高そうな腕時計だ。
どんどん時間が過ぎていく。海老原投手は現れない。
「既に部屋にいないのでしょうか。奥さんに聞けませんか?」
「ここはセカンドハウス。妻子とは別のマンションの部屋も借りてるのよ。妻のもとには、週に一回顔を出すかどうかみたい」
既に別居状態なのか。
「ますます、部屋にいるか怪しいですね。もしくは、今日は出かけるつもりがないとか」
「あまり店を梯子するタイプじゃないから、直接迎えに行くと思ったんだけど。部屋の窓はシャッターが閉まっていて、電気が点いているのかわからないな」
紫子さんは鞄から双眼鏡を取り出して、マンションを見上げている。海老原投手の部屋の位置を知っているようだ。
このマンションがある品川からテレビ局まで、かなり距離がある。番組終りで迎えに行くなら、とっくに出てきていいはずだ。
今日はハズレだったのかと諦めかけた時、マンション入り口近くにタクシーが停まった。
「送迎車のようです」
「期待できるかも」
紫子さんは黒い鞄を抱きしめた。きっとパソコンなども入っているのだろう大きな鞄は、ブランドに疎い俺でも知っているプラダのロゴが入っていた。
エントランスのドアの奥に人影が見えてきた。ドアは曇りガラスになっていて、まだはっきりとは見えない。
「誰か出てきました」
そう俺が言うのとほぼ同時に、紫子さんは鞄を掴んで車のドアを開けていた。俺の携帯が鳴る。
「それ私だから出て。通話状態にしておいて。動いたらあのタクシーを追いかけること」
紫子さんは車を降りて、流しのタクシーを捕まえようとしていた。俺とは別の車で追いかけるつもりのようだ。
マンションのエントランスに視線を戻すと、出てきたのはやはり、海老原投手だった。身長百九十センチ超えで、野球選手特有の体つきをしていれば、どんな格好をしていても目立つ。
海老原投手が乗車するとタクシーが大きく揺れた。百キロ以上あるのだから当然だ。
タクシーが動き出した。追跡を開始する。車で追いかけるのは初めてで緊張する。
「まだタクシーがつかまらないから、どこを走っているのか実況して」
スピーカーモードにしていたスマートフォンから、紫子さんの声が聞こえてくる。
「見失わないことが第一だけど、できれば車一台挟んで追いかけること。ずっと同じ車が後ろに張り付いていたらばれちゃうでしょ。本当は私が乗ったタクシーと交互に後ろについて追跡したかったんだけど」
なるほど、だから紫子さんは俺の車を降りたのか。
「わかりました」
まさに真後ろにつけていた俺は、交差点で車を前に入れた。しかし、一台入れただけで対象の車が見づらくなるし、信号で引き離されないか不安になる。
「タクシーに乗った。今どこ?」
「麻布通りです。六本木方面に向かっています」
「了解」
紫子さんが運転手に行き先を告げる声が聞こえた。
「念のため、タクシー会社の名前と、車番を控えておいて」
「わかりました。でも、どうしてですか?」
「もし見失ったら、どこで海老原を降ろしたか、運転手に聞くためよ。あわよくば、車内の会話も教えてくれるかもしれない。個人情報とかで話してくれない運転手が多いけど、お金で解決することもあるから」
「そうですか」
また闇を知ってしまった。
「やば、信号だ」
まだ黄色になったばかりだというのに、前の車が減速している。止まるつもりだ。このままでは分断されて、海老原投手の乗った車を見失ってしまう。
正直、俺も安全運転タイプなので同じような運転スタイルなのだが、今は困る。前の車を追い抜いて海老原投手の乗ったタクシーを追いかけたら、不自然な動きをしてしまって気づかれるかもしれない。
(どうする?)
悠長に考える時間はない。
一瞬迷い、ハンドルを回してアクセルを踏み込もうとしたとき、「そのまま止まってて!」と紫子さんから声がかかった。
「追いついたわ。私が海老原の後ろにつく。今追い越すタクシーが私だから、番号を覚えて。信号が変わってからついてきて」
横から追い抜いていく緑のタクシーを見ると、紫子さんが軽く手をあげて俺に合図した。ほっとしてハンドルを戻す。やっぱり紫子さんは頼もしい。
その後、紫子さんのナビで六本木通り沿いに停車しているタクシーの近くに車を停めた。
海老原はタクシーから降りて、八階建ての細い雑居ビルに入っていく。俺はその姿を撮影した。
「だめね、このビルはほぼすべて会員制の店で、一見は入れないのよ。店の中は諦めかな」
タクシーから降りている紫子さんは、ビルを見上げながら言った。まだ通話のままだ。
「店だけ特定しておくわ。あと一応入れるか試してみるから、そこで待機していて」
そう言って電話は切れた。
俺は長時間停車していても問題のない場所で、かつビルから海老原投手が出てきたときに写しやすい位置に車を移動させてから、紫子さんからの連絡を待った。今回は油断せずに、目を離さずに雑居ビルの出入り口を見ておく。
……しばらくすると、出口がひとつだけなのか不安になってきた。車から降りて確認するべきだろうか。
紫子さんにラインで聞いてみる。
〈いい質問ね。初めての現場は、出入り口や周辺の立地を調べるのが基本よ。そしてある程度、相手の動きを予測して、自分がどんな行動をとるべきかシミュレーションしておくの〉
褒められた。ちょっと嬉しい。
〈私が知ってるから答えを言っちゃうけど、このビルに出入り口は一つしかない。あと、入ったばかりの今から、親の仇のように出入り口を睨んでいなくていいから。油断は禁物だけど、長丁場の場合は緩急が大事だからね〉
見抜かれていた。
〈バーに潜入できた。海老原は赤間アナと一緒〉
会員制だと言っていたのに入れたのか。すごいな。
〈どうやって入ったんですか?〉
〈店から出てきた客をナンパした〉
「えっ」
声を出してしまった。
身体を張りすぎだ。そんなの、下心しかない酔っ払いに違いないのに。しかも場所は六本木の会員制バーだ。心配しかない。
〈大丈夫なんでしょうね?〉
〈相手がトイレから戻ってきた。とりあえず新しいグループ作るから、入っておいて〉
そこからぱったりとラインの連絡が届かなくなった。十分、二十分と時間が経つにつれて、仕事なんて放りだして迎えに行きたくなる。
(どの店かわからないけど……)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます