スタジオカメラマンと報道カメラマン 7
アパートまで戻ってきた。
コンビニや最寄駅からまあまあ近いことだけが取り柄の、二階建ての古いアパートだ。俺の部屋は一階の角部屋で、玄関の目の前に階段があるため、誰かが階段を使うたびにカンカンという金属音が聞こえてくる。
(……)
部屋に入ったものの、玄関で立ち止まったまま、じっと足元を見ていた。
スタジアムを後にしてからというもの、頭がぼんやりしていた。脳の代わりに綿でも詰まったかように、正常に動いてくれなかった。
「……風呂でも入るか」
湯船に浸かると、頭や体の錆が剥がれていくようだ。ギシギシと軋みながらでも、少しずつ回転するようになってくる。
すると紫子さんに発した言葉が思い出されて、俺はまた両手で顔を覆った。何度思い出しても最低な態度だった。
(そういえば、湯船に入るのは何日ぶりだろう)
忙しすぎて、最低限のシャワーで済ませていた。いや、風呂くらい入る時間はあったのだろうが、なにかしなければと気持ちだけが焦って、空回りしていただけかもしれない。
風呂から上がり、ルームウェアのスウェットパンツとTシャツを着る。
ベッドに腰掛けると、大きく息をはいた。温まった体温が下がっていくにつれ、冷静に考えられるようになってきた。
「なにをやってるんだ、俺は」
本当は、この時間はスタジアムにいるはずだった。
首から下げていたタオルで濡れた髪を乱暴に拭いた。
顔をあげると、ガラス戸棚に入ったカメラが目に入った。
ニコンのD1。
父親の形見のカメラだった。
棚からカメラを取り出して、再びベッドに腰掛けた。カメラがずっしりと重く感じる。父からもらった十才のときには、もっと重く、大きく感じたものだ。父から簡単に使い方を教わって、毎日カメラを首から下げて撮影をして遊んでいた。
D1はデジタル一眼レフカメラ史に刻まれている、画期的なものだ。
デジタルカメラが世界で初めて開発されたのは、一九七五年、イーストマン・コダック社と言われている。日本でも一九八一年にソニーがマビカシステムを発表したが、こちらも発売はされていない。
実際に販売された製品としては、一九八六年、キヤノンのRC-701だったが、高価なため、普及しなかった。
一般向けのコンパクトデジタルカメラはさておき、プロ仕様のカメラは百万円を超える中、性能と低価格を併せ持ったD1が一九九九年に登場する。デジタル一眼レフカメラ時代が本格化した瞬間だった。
それからは毎年のように性能が更新されていった。父も新しいカメラに買い換えたのだろう。D1は不要になったに違いない。
とはいえ、買い換えるなら下取りに出すのが通常だ。あえて残したということは、このカメラを俺に託そうと思ったのではないか。
おそらくD1は、父が初めて使ったデジタルカメラだ。
それまでの一眼レフデジタルカメラは、バッテリーが内蔵されていても、固定されているものが多かった。スタジオなどで充電しながら使うことが想定されていたと思われる。
しかし、D1はバッテリーパックなので、交換することが可能だ。つまり、電源のないところでの長時間撮影が可能だということだ。
父は戦場カメラマンだった。
一年の半分以上を中東ですごし、母もよくついて行った。残された俺は、近所に住む祖父母に預けられることが多かった。
まったく淋しくなかったと言ったら嘘になるが、帰って来た父はいつも楽しそうに土産話をしてくれるし、そんな父を母は誇らしく思ってるようだった。そんな二人の姿を見るのが、俺は好きだった。
だけど父は、中東の反政府デモの撮影中、銃撃を受けて死んでしまった。俺が十三歳のころだった。
その知らせを受けたのだろう、電話の受話器を持ったまま泣き崩れる母の姿が、目に焼きついている。
このD1をもらった時に、俺が目指す職業は決まったも同然だった。
しかし、戦場に行きたいとは思っていなかった。それは危険だからとか、大変そうだからとか、遠いからとか、そんなことではない。
たぶん、気丈な母をまた泣かせるようなことはしたくないと、心のどこかで思ったのだ。当然のように就職先は撮影スタジオに絞っていた。
それなのに、不思議なものだ。
希望が叶ってからというもの、父のような写真を撮りたいという思いが強くなった。
(いや、不思議でもなんでもないか)
いつでも海外に行けるように、英語はしっかりと、アラビア語は日常会話がなんとかできるくらいまで習得していた。大学時代にバイトで金を貯めては一人旅をしたが、中東にも何度か行った。
なにを写したいという具体的なものはなかった。時間をかけてそれを掴み、父と同じ光景を見て、同じものを感じたかった。
だから、予感みたいなものはあったのだろう。神奈川県にある実家に帰って「戦場カメラマンになりたい」と告げた時、母は驚かなかった。
母は、よくも百八十センチ超えの俺を産めたものだと思うほど小柄で華奢だった。しかし、父に同行して紛争地域に行くことからもわかるように、バイタリティに富んでいる。今も戦場カメラマンの妻として、講演会やボランティア活動をしていた。
その母がソファに座り直して姿勢を正すだけで、なんともいえない迫力があった。
「そう。それで、なにを撮りたいの?」
母のその問いに、向かいに座る俺は答えられなかった。まだ漠然としたビジョンしかないのだ。
母は「やっぱりね」と言わんばかりの表情を見せた。
「目的もなく行って撮れるほど、甘い世界じゃないのよ。それにカメラマンは一匹狼のように見えるかもしれないけど、現地の助けが重要なの。つまりは人脈作りね」
俺は「そうなんだ」とうなずくことしかできない。仕事関係の話を聞く前に父は亡くなっているし、母に尋ねたこともなかった。
「本当に、報道カメラマンになりたいのね」
俺は背筋を伸ばしてうなずいた。
「スタジオカメラマンと報道カメラマンとじゃ、全然違うってことはわかってるでしょ。あの人だって、新聞社を経てフリーになってるのよ。まずは国内で活動しなさい。そこでノウハウを得て、大手通信社の写真室が欲しがるような人材になってみなさいよ」
母の言うとおりだと思った。
どこか中途採用を探さなければと考えている俺に、母が紹介してくれたのが、西園寺プロダクションだった。
「俺は、なにもしないまま逃げ出すところだった」
D1を手にしたまま、ベッドに倒れた。
ファインダーを覗くと、木目のあちこちにシミが浮かんだ天井が映っていた。反応は遅いし、バッテリーももたない。とても仕事には使えないが、D1はまだ元気だ。
ベッドの傍らにカメラを置いて、スマートフォンを手に取った。リダイアルをしようとして、指がとまった。そこから、どうしても指が進まない。
ほんの数ミリの距離が遠かった。
俺は思わず止めていた息をはき出して、気持ちを落ち着けるために時間を置くことにした。そして別の番号を押す。
「澄夫が電話してくるなんて珍しいわね。どうしたの、仕事は順調?」
電話に出た母は「もしもし」の常套句抜きで話し始めた。その明るい声を聞くだけでリラックスできた。
「まあね。休みなくこき使われてるよ。仕事は厳しいし」
「銃弾が飛んでこないだけマシでしょ」
あははと母は快活に笑った。そりゃそうだと、俺もつられて笑う。
「ちょっと時間ができたから、かけてみただけ。じゃあ」
俺は電話を切った。身を起こして姿勢を正すと、今度こそ本命の登録ボタンを押下した。
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