一章 スタジオカメラマンと報道カメラマン
スタジオカメラマンと報道カメラマン 1
渋谷駅から徒歩五分ほど。若者たちで賑わうセンター街の反対側、南口方面にある閑静なオフィス街の一角に、俺の目指す雑居ビルがあった。
渋谷は名前が表すように谷間にある地域なだけあって、どこを歩いても坂に当たる。たった五分の道のりだったが、歩道橋を渡った後に急な坂道をのぼらねばならず、体力を削られた。
六月に入ったばかりだったが、既に半袖で充分な暑さになっており、額に汗がにじむ。
「ここだな」
築年数は相当経っているだろう、赤いタイル地の六階建てのビルを、手にしたスマートフォンの地図アプリが示している。
(多少老朽化していようと、好立地のこの場所は、家賃も高いだろうな)
……なんて、大学時代からずっと学生街の安普請に住んでいる俺は、ついそんなことを考えた。
四階でエレベーターを降りると、ドアはひとつしかなかった。「西園寺プロダクション」と書かれたプレートが張り付いている。呼び鈴を鳴らそうとして、俺はその手を止めた。
「いいのかな、これで」
思わず、言葉がこぼれた。
小さな頃から、カメラマンになりたいと思っていた。
写真学科のある大学を卒業して、希望どおりの撮影スタジオに就職できた。家族の記念撮影や、雑誌のグラビア撮影が主な仕事だ。
最高の笑顔や、ほんの一瞬垣間見せる、本人も知らないような表情を引き出して切り取る作業は楽しかった。
なのに。
日に日に、「撮りたいものとは違う」という気持ちが募っていった。
――親父のような写真を撮りたい。
その思いを母親に打ち明けたら、この編集プロダクションを紹介された。主に週刊誌に関わる編集者、ライター、カメラマンなどが所属する事務所だという。
(だからって、パパラッチってのも、なんか違う気がするんだけど)
そんな思いを、俺は頭を振って散らした。
この期に及んで、なにをためらっているんだ。もう撮影スタジオは辞めたのに。
俺は一息吸うと、思い切って呼び鈴を鳴らした。中から「はあい」とハスキーな女性の声が聞こえて、間もなく扉が開いた。
「あら、開いてるから、勝手に入ってきてよかったのに。あなたが佐藤澄生くんね。私は社長の西園寺愛。よろしく」
ベリーショートの黒髪の女性が俺を出迎えてくれた。彼女が母の知人であり、この事務所の社長のようだ。
五十代くらいだろうか、しっかりと化粧をしていて、意志の強そうな眉と瞳が印象的な美人だ。シャツとGパンという簡素な服装でも洗練されて見える。
十二畳ほどの事務所に入ると、机がいくつか並んでいて一角に流しと洗面所がある。白壁には雑誌や本がぎっしりと詰まった本棚が二つ並んでいた。大きな液晶テレビや、コンビニにあるような大きなプリンターもある。
窓が全開になっていて、午後の眩しい日差しと、ほどよい風が入っていた。事務所には社長以外に誰もいないようだ。
「スタッフは十人いるんだけど、みんな現場にいるか自宅で作業をするから、あまりここに来ないのよ。アイスコーヒーでいい?」
「ありがとうございます」
促された椅子に座っていると、社長は冷蔵庫から取り出したペットボトルを紙コップに注いで、俺の前のテーブルに置いた。社長はマイカップを手にして、俺の隣りに腰かける。
「随分大きいのね。お母さんは小柄なのに」
「百八十五センチです。父が大きくて」
「恵まれた体形ね。もてるでしょ」
「そんなことないです」
長身だからといって、特にもてない。高いところに手が届くのは便利だけど、気を抜いていると鴨居や電車の入り口に頭をぶつけるし、運動部からスカウトされても、期待されるほど運動神経は良くないのでガッカリされてしまう。
人ごみでも頭ひとつ出てしまって困る。目立つのはあまり好きではないのだ。キャッチのような人によく声をかけられてしまうので、できるだけ目を合わせないように足早に逃げていた。
「そう? バレンタインチョコ、いっぱいもらってたんじゃない?」
社長はからかうように尋ねてくるので、俺は苦笑した。
「数だけは」
「へえ、いくつ?」
「多い時は、五十個くらいですか」
「えっ」
社長は目を丸くした。
「もてるじゃないの」
「違いますよ。友チョコです」
「友チョコ?」
メディアの人が、友チョコという言葉を知らないのだろうか。そういえば、母も初めは驚いていた。どうらや昔は、友達にチョコを配らなかったらしい。
「友チョコの存在を知らないわけじゃないのよ。女子の間でするものかと、勝手に思っていたから。澄生くんは男子校?」
「いえ、共学です。女子からもらったんですけど。友チョコだよねって聞くと、そうだよって、みんな言います」
「……なるほどね」
社長は眉をひそめて、気の毒そうな眼差しを向けてきた。
「澄生くん、彼女いないでしょ」
「いませんけど」
決めつけられてしまった。当たっているのが悲しい。
彼女いない歴は年齢とイコールなのでちょっと恥ずかしいけれど、欲しいと思ったこともないので仕方がない。
「あなたの彼女は苦労しそうね」
「?」
なぜか同情された。俺の未来の彼女が。
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