見上げれば降るかもしれない
増田朋美
見上げれば降るかもしれない
今日も日が出たが、風が冷たくて寒い日であった。この時点でやっとこたつを出そうという人が出てくるかもしれなかった。とにかく夏が暑くて、冬がやってくるのは遅くなっている気がするが、いざ来てみると、極端に寒いなと思われてしまうのはなぜだろう。そうなると、雪がふるとか、そういう事もまた変わってくるのではないかと思われるかもしれない。そんな季節が今年もやってきたのだった。
その日、杉ちゃんとジョチさんは、最近テレビドラマで話題になっている、徳川家康公の所持品などを展示する展示会を見に、富士市内の博物館を訪れていた。多くの人が展示会を見に来ていたが、中には着物を着ている人も少なからず居る。着物を着る人が増えてくれるのはありがたいんだけど、中には洋服とあわせてみたり、ブーツを履いたりなど、着物本来のあり方ではない着方をしている人も居るから困ったものである。
「それも、時代の流れですから、仕方ないですね。着物本来の着方をしない人もいますよ。」
ジョチさんは、ちょっとため息をついて、着物を着ている女性たちを眺めていた。
「そうかな?あの人は違うみたいだぜ。」
と、杉ちゃんが一人の女性を顎で示した。確かに、展示室の入口に、紺色の着物を着ている女性がいた。その人は、ちゃんと長襦袢を着て、足袋を履き、草履を履いて展示室に来ていた。帯結びは、お太鼓の結び方をしていたが、多分作り帯なのだろう。お太鼓が斜めになっている。
「ちょっと、作り帯が不格好だな。」
杉ちゃんがそう言うが、
「僕たちは言わないで上げましょう。きっと彼女は一生懸命できないなりに着付けをしてきたんだと思いますよ。もしかしたら初めてなのかもしれない。そんなときに、帯が曲がっているなんて、話してしまったら可哀想ですよ。」
ジョチさんはそういった。ところが、一人の洋服を着た女性が、その着物の女性に近づいた。
「ちょっとあなた。」
と、その人は、着物の女性に言った。
「あなた、こんなところにウール着物なんか着てきて、一体何様のつもりなのかしら?家康公に失礼よ。そんな格好でここに来るのは。」
「す、すみません。」
着物の女性は、申し訳無さそうに言った。
「そんな事、知らなかったんです。ただ、可愛ければいいのかなと思ってしまいました。」
女性はとても正直な感じだった。
「だったら覚えることね。ウール着物は普段着で外出着にはしないわよ。それでは覚えましょうね。」
「は、はい、ごめんなさい。」
着物の女性は、また申し訳無さそうに言った。
「ちょっと待て。」
と、杉ちゃんがその女性二人の間に入った。
「まあ確かに、今は格が低いと思われているウール着物だけど、昔はそれほどでもなかったぞ。いいか、毛織物が伝来したのは、鉄砲とキリスト教が伝来したとき。その当時は羅紗と呼ばれ、有名な戦国武将の陣羽織の原料になっていた。羅紗屋という、毛織物を専門に売る商売まであったようだ。そういうわけで、家康公も陣羽織として使っていたのかもしれないよ。だから、そういうことであれば、何も失礼でもないの。お前さん、それ知ってた?そこを知っていれば、ウールが格が低いなんて、一概に言えないんだぜ。どうだ、参ったか。」
杉ちゃんがそう言うと、洋服の中年女性は、小さくなって、すみませんといい、それ以上のおせっかいをするのをやめようと思ってくれたらしく、何も悪態もなく出ていった。
「ありがとうございました。ああしてとりなしてくれなかったら、着物警察さんにまた言われるところでした。」
ウール着物の女性は、とてもうれしそうに言った。
「いいえ、多分、この事実は着付けの先生でも知らないことだと思いますよ。ちなみに、江戸時代、毛織物は長崎の出島を通して日本にもたらされ、唐縮緬という呼び方で流行していたそうです。ちなみにこのときに輸入していた毛織物は、海外で言うところのサージと同じものになります。明治時代、唐縮緬という呼び方は撤廃され、サージという名称で取引されるようになったそうなんですが、日本人はセルジと読んでしまい、それが略してセルと呼ばれるようになったそうです。」
ジョチさんがその続きを説明すると、
「ありがとうございます。セルという着物は私も聞いたことがありました。確か、着物を買いに行ったとき、着物屋さんがセルの着物と話していました。」
と女性は言った。
「そうそう。しばらくセルという名称で売られていたが、戦後それも撤廃されて、ようやくウール着物と呼ばれるようになったんだ。まあ、それで現在に至るわけ。ちなみに、今でこそ普段着程度しか言われないが、唐縮緬とか呼ばれていたときは、ものすごい金持ちでなければ入手できなかったんだよ。」
杉ちゃんが言うと、女性はその説明をとても興味深そうに聞いていた。
「そうなんですね。そんな事全然知りませんでした。なんか展示会を見に来るよりも、お二人に聞いたほうが、着物の勉強になるかなと思いました。ありがとうございます。」
「ということは、お前さん着物に興味あるの?」
杉ちゃんはすぐ聞いた。
「はい、あるんですが、なかなか高くて手に入らないから、仕方なくウール着物で我慢していたんです。」
女性は答えた。
「ほんならリサイクルで買えばいいだろ。500円とかでわんさか買えるぜ。それに、今は通信販売もあるから、着物を買うのはそう難しいことでは無いと思うけど。何なら僕らが、店を紹介してやろうか?お前さんの名前は?」
杉ちゃんがそう言うと、
「はい。石塚と申します。石塚彩奈です。」
と、彼女、石塚彩奈さんは答えた。
「石塚彩奈さんね。どちらにお住まいですか?」
ジョチさんが聞くと、
「はい、住んでいるところは富士市内です。」
と、彼女は答えた。
「そうなんだ。それじゃあすぐ近くだな。じゃあ、ここへ電話して、今度こそ安い価格で正絹の着物を買うようにしてね。」
杉ちゃんがそう言うとジョチさんが、メモ用紙に、カールさんの着物屋の名前と住所と電話番号を書いて、石塚彩奈さんに渡した。
「ありがとうございます。でも、なんだかお二人の話を聞いて、正絹よりもウール着物の方に興味を持ってしまいました。正絹は確かに着物の生地として、一般的なんでしょうけど、先程の羅紗とか、唐縮緬とか、セルなどと、呼称を変えて、日本にあった事のほうが興味が出てきたんです。だから、これからもウール着物を着て生きたいと思うんですけど。それではだめでしょうか?」
石塚彩奈さんはにこやかに笑っていった。
「はあ。変なところに興味持つ女が居るもんだな。まあ、今の時代だから、そういう着物に興味持つ女がいても不思議じゃないか。それはそれでいいんじゃないの。あまりメジャーではない作曲家に興味持つピアニストが居るのと同じでさ。」
杉ちゃんが笑うと、
「そうかも知れませんね。そういうことなら、ウール着物を極めてもいいんじゃありませんか。その知識が、なにかの役に立つことがあるかもしれませんから。決して、人生で無駄なことは無いっていいますし。」
ジョチさんもにこやかに笑っていった。
「ありがとうございます。それではこちらのお店でウール着物をたくさん買って、それで過ごしたレポートでも書いてみようかと思います。それでは、先程は助けていただいてありがとうございました。」
と、石塚彩奈さんはとても上機嫌な顔つきになって、杉ちゃんたちに頭を下げて、展示室の中を歩いていった。
「でも、ウールが格が低いと感じている、ステレオタイプの人が多いから、気をつけてね!」
杉ちゃんは言ったのであるが、石塚彩奈さんはそれには返事をしなかった。
「いいですねえ。若い人は。」
ジョチさんはそう言って大きなため息を付く。
それから数日後のことであった。杉ちゃんがいつもと変わらずに水穂さんにご飯を食べさせようとしていると、
「こんにちは、あの、こちらに、影山杉三さんと言う方いらっしゃいますか?」
と、玄関先で若い女性の声がしたので、杉ちゃんは、
「ああ今手が離せないので、上がってきてくれるか?」
と言った。すると女性はお邪魔しますと言って、四畳半に入ってきた。今度は赤い色のウール着物を身に着けている。
「石塚彩奈さん。」
杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「そうです。石塚彩奈です。」
と、彼女は答えた。
「それで今日はどうしたの?」
杉ちゃんが言うと、
「はい。こないだは、私を助けていただいてありがとうございました。あのあと、なにかお二人にお礼をしたいと思ったんですが、お礼に送る物品等が見つからず、じゃあ体で払おうと思いまして、こちらへこさせていただきました。」
と、石塚彩奈さんは言った。
「体で払う。つまりどういうことだ。」
杉ちゃんが聞くと、
「いえ大したことではありません。つまるところ何かお手伝いをするということです。掃除でも料理でもなんでもしますから、一日使ってください。」
と彼女は答えた。
「そうなんだ。じゃあ、今ここに居る水穂さんの世話をするのを手伝ってくれ。どうしても、僕にはできないこともあるからね。」
杉ちゃんが言うと、石塚彩奈さんは、
「そうですか。なんだか食べにくいものをばっかりじゃないですか。それなら私、雑炊作ってきますから、ちょっとまってくれますか。」
と言って、台所に行ってしまった。急いでその近くにいた由紀子が、
「水穂さんには、肉さかなは一切抜きよ!」
思わず言ったのであるが、石塚彩奈さんは、
「わかりました。それならそうしましょう。そういう体質の人だっているわ。犬が苦手というだけではなくて、犬アレルギーで犬が飼えない人もいる。それと同じことよ。」
と言って、台所へ向かっていった。そしてすぐに冷蔵庫の中身を調べ上げ、米びつの中身も調べて、急いで米を研いで、鍋に水を入れて、おかゆを作り始めた。炊きがゆだった。おかゆというと、米を炊いてから作るものであるが、彩奈さんの作るおかゆはそうではなく米から作るものであった。味はただの塩がゆとし、肉も魚も一切入れず、野菜だけのおかゆが出来上がった。
「はいできましたよ。特製の白粥です。肉も魚も入れていませんから、安心して食べてください。」
石塚彩奈さんは、そう言って、おかゆをさらに乗せて、水穂さんの近くまで持っていった。
「はあ、なかなか面倒くさい作業をやりたがるものだな。それでは美味しそうなおかゆじゃないか。僕が作るのよりうまそうだねえ。」
杉ちゃんがでかい声で言うほど、おかゆは美味しそうな味だった。
「それでは、しっかり残さず食べてよ。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんは布団の上に起きた。そしておかゆをお匙でとって、口に入れた。
「お味はいかがですか?」
石塚彩奈さんに言われて、水穂さんは、
「美味しいです。」
と一言言った。
「じゃあ、一口で完結しちゃだめだぜ。それなら、全部食べてしっかりしてくれよ。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんは、もう一口口に入れたが、またいつものように咳き込んでしまった。なんとか続きをやろうとしてくれるのであるが、どうしても、それ以降を食べることができない。
「大丈夫ですか。無理して食べるわけにも行かないでしょうから、ゆっくり食べてください。よほど酷いんですね。どこか、療養所とかそういうところから、帰ってきたんですか?」
石塚彩奈さんは昔の文学にあるようなキーワードを言った。
「いや、そういうことでは無いんだけどね。そもそも、こいつが着ている着物を眺めれば、療養所に入れる身分でも無いってことは、わかってもらえるかな?」
と杉ちゃんが言った。確かに水穂さんは、三角形を規則的に並べたような、いわゆる北条鱗と呼ばれる柄の着物を着ている。
「はあ確かに、いわゆる正絹の着物とも違うようですし、こないだ教えてくださったウールの着物ともまた違うようですね。」
石塚彩奈さんはそう水穂さんの着物を眺めていった。
「これは、どう違うんですか?もしかして、なにか訳のある着物なんでしょうか?」
と、彼女は言った。
「違いを説明しろですって!それでは水穂さんがされてきた差別を話してしまうと言うことですか!そんな事絶対できません。そんなこと話すなんて、本人の目の前で可哀想過ぎますよ!」
由紀子が、水穂さんの隣で、ちょっとヒステリックに言った。
「いえ、知りたいです。それはもしかして、ウール着物を知る上で、また大事なキーポイントになるかもしれないのです。」
石塚彩奈さんは、そういったのであるが、
「あなたは何をするつもりなのよ!そんなに、着物を事を知りたがるなんて、何を考えてそんな事を?」
由紀子は、急いで言った。
「いえ、私は悪気なんてなんでもありません。ただ、ウール着物にまつわる本を出したいと思っているのです。他の着物と違っている歴史を辿ってきた着物ですから、そのあたりの使い方を本にまとめようと思っています。そして、着物が少しでも、普及してくれるように、貢献したいんです。」
「ということは、お前さんは作家なんだね。」
と杉ちゃんが言った。
「まだ駆け出しですけど、着物にまつわる小説などを書いていきたいと思っています。着物は、あれだけ素晴らしいのに、有名無実のところがある。そうではなくて、もっと気軽に着てもいいんだっていうところを、本に書きたいんです。それはいけないことでしょうか。もっと着物を着る人が増えてほしい。その思いで、ここまでやってきました。」
石塚彩奈さんは、そのようにきっぱりと言った。
「そうなんだね。それなら、銘仙の着物の事も書こうというのかい?」
と、杉ちゃんは驚いて言った。
「それが、例えば、負の遺産のようなものになっちまうことであっても、お前さんは書こうとするのかい?」
「ええ。その覚悟も私は持っています!」
杉ちゃんが言うと、彼女はきっぱりと言った。
「そうか。まあお前さんの強い意志には折れちまうな。それでは、ちゃんと書いてくれ。銘仙の着物のこともだ。可愛さのあまり手を出すやつが多いが、それはある意味負の遺産を身にまとっていることだって、ちゃんと警告するんだ!」
「辞めて!」
杉ちゃんがそう言うと、由紀子が言った。
「そんな事したら、水穂さんが、今までされてきたことが明るみに出ちゃうわ!そうしたら、水穂さんが完全にさらしものよ。彼が今まで一生懸命我慢してきたことを、文献として出版されてしまうのよ!それを口外されたら、どうなるか。あなたにはわからないでしょうね。興味本位で、ただ本を書くなんて!」
「そうかも知れないが、これはチャンスかも知れないぞ。銘仙の着物のことを紹介してもらえれば、同和問題で差別されてきた人たちの実態がわかってくると言うものだ。それで、誰か関心を持ってくれるやつが出てくるかもしれないじゃないか。そうなれば、差別をやめさせるため、偉い人が動いてくれるかもしれないぞ。そうすれば、水穂さんたちも、少しは楽になってくれるというもんじゃないか。違うのかい?」
杉ちゃんがそう言うと、
「でも、私は耐えられない。水穂さんがされてきたことが本になって世間に出るなんて!そんな可哀想なこと見てあげられない。水穂さんがされてきたことを、本になって平気で世間にバラすなんて、私は辛すぎて見てあげられない!」
由紀子は、そう言ったのであった。
「由紀子さんがそう思ってくれるのは、ありがたいんですけど、僕たちには、銘仙の着物の事を本にするのを許可するどころか、止めることだってできないんですよ。」
と、細い声で水穂さんが言った。
「そのとおりだ。そういうことなら、チャンスかも知れないじゃないか。どうせな、僕らはヒーローにはなれやしない。偉いやつに世の中変えてもらうしかできないんだ。まあ、もちろんそれを選ぶことはできるけど、それだって、偉い奴らの作戦に乗っけられるだけだろう。ましてや直接訴えることなんてできやしない。でもな、本を出すとかそういうことは、そういう偉いやつであれ、一般のやつであれ、事実に触れることができるようになる媒体なんだ。僕、読めないからよく知らないけどさ。最近の本は、テレビゲームの生き写しみたいな内容ばかりで、なかなか事実を突きつけるような本はない。でも、そういうことだけが全てじゃなくて、銘仙の着物の事をいろんな人に伝えていけるんだよ。それを、身分関係なく教えていけるのも、本っていうもんなんじゃないのかよ!」
杉ちゃんに言われて由紀子は、小さな声で、
「でも、水穂さんの事を、あからさまに本にしてしまうのは、私はいけないと思うわ。」
と、言ったのであった。
「だけど、ここまで愛してくれる人が居るって、水穂さんはすごいじゃないですか。それだけの人がいればどんなことだって乗り切れますよ。私は、私で、着物の本を書きたいと思っていますし、水穂さんが着ていた着物も、悪い歴史を辿った事もしっかり書こうと思います。それに、そういう歴史を持っている着物はそれだけでは無いはずです。そういうことは、やっぱり後世に伝えていかなくちゃいけないし。今は、何でもありの時代だけど、それでは行けないってこともちゃんと伝えなければならないということも、忘れてはいけないんですよね。」
石塚彩奈さんは、にこやかに笑って、そういったのであった。
「ようし!そういうことなら、ぜひお前さんにはウール着物の事を書いた本を書いてもらおうな。まだお前さんの着物の研究は序の口だぜ。それでは、もっと研究を極めて、着物のことならなんでもお任せっていう、人間になってね!」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんが咳き込んだ。大変辛そうだった。由紀子がすぐに水穂さん大丈夫?苦しい?と声掛けしてあげて、そっと背中を擦ってあげてやるのだった。結局、石塚彩奈さんが作ったおかゆは、何も食べられないまま水穂さんは薬を飲んで眠ってしまったが、誰もそれを変なふうに言う人はいなかった。水穂さんを布団に寝かせてあげると同時に雨が降ってきた。冬によくあるザーザー降りの雨ではなくて、静かに降る雨だった。
見上げれば降るかもしれない 増田朋美 @masubuchi4996
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