第33話

 夢羽さんからの思いがけない提案に、僕はとまどってしまう。

 けれども、当の夢羽さんの表情は真剣そのもので、けっして冗談を言っているわけではなさそうだ。


「私、これから時々万央さんのお宅にうかがいますね。大丈夫、私に任せてください。一人暮らしという点においては、私のほうが先輩ですから」

「気づかってくれてありがとう。でも、僕は大丈夫だから気にしないで。夢羽さんに迷惑かけたくないし」

「いえ、そのくらいさせてください。私、万央さんにたくさんの物をいただいておきながら、まだ何も返せていませんから。料理でも洗濯でも、遠慮せずに何でもおっしゃってくださいね」

「気持ちは嬉しいけど……受け取るのは気持ちだけにしておくよ」

「どうしてです? 私じゃ頼りになりませんか?」

「ううん、そうじゃなくて」


 僕は首を横にふって、理由を説明する。


「だって、夢羽さんはこれからアイドルになるんだもの。そんなアイドルの卵の女の子が、みだりに男の子の家にやって来てはいけない気がして。まして一人暮らしの部屋だしね」

「あっ……」


 僕の言葉の意図をくみ取ったのか、たちまち夢羽さんがトーンダウンする。アイドルって、本当に制約が多い存在だなと改めて思い知る。


 もっとも、アイドルの先輩である深月さんは、一人暮らしの部屋に僕を招き入れたんだけどね。

 ストレスのあまり情緒不安定におちいっていたのが原因なのだけど、世間に知れたら、きっと理解されないんだろうな。


 夢羽さんはひとまず引き下がったものの、最後にきっぱりと言い放った。


「では、せめて引っ越しの日くらいは手伝わせてください。私、荷造りには慣れていますので!」



   〇



「ええ~っ! 万央くん、それでOKしちゃったの~っ!?」


 夜、深月さんに事の顛末を伝えると、案の定、驚きの声が返ってきた。


「いや、OKしたつもりはないんだけどね。夢羽さんがちっとも聞いてくれなくて。『遠慮せず、私に任せてください!』の一点ばりで。夢羽さん、大人しそうに見えて案外思いこみの激しいところがあるから」


 夢羽さんは僕にいろいろと感謝をしてくれていて、この機会に恩を返さないでいつ返すんだと言わんばかりに意気ごんでいる。あの調子だと簡単には折れてくれそうにない。


 一方、話を聞いた深月さんは、うーんと顎の辺りに手を添えて考えこむ。


「夢羽ちゃんはうち事務所のオーディションに合格したんだよね。ということは、私の後輩になるわけか」

「そうだけど、それが何か?」

「いいよ。万央くんの引っ越しの日に、夢羽ちゃんを家に呼びましょう」

「えっ、いいの!?」


 今度は僕が驚く番だった。


「ええ。同じ事務所の後輩だもの。先輩の家に遊びに来ることだってあるでしょ。実際、衣知花ちゃんだって何度も家に来ているしね。それに、私も夢羽ちゃんには前から会ってみたいと思っていたから」


 深月さんがにこやかに目を細め、さらにニィと口角を上げる。


「……いい機会だから、この際きっちり分からせてあげる。どっちが立場が上なのかね」

「深月さん。すごく悪い顔してるよ」


 怪しい暗い笑みを浮かべる深月さん。何かよからぬことを企んでいる時の顔だった。



   〇



 そして、いよいよ僕が引越しをする日を迎えた。

 整然と片づけられた何もない僕の部屋に立ち尽くし、これまでの日々を改めてふり返る。


 僕はメンタルが弱い深月さんを支えたいと心から願い、この家にやって来た。


 ほんの二ヵ月ほどの短い期間だったけれども、子供の頃からずっと憧れていたお姉さんと二人きりで過ごす甘いひと時は、僕の人生の宝物として、これからも心の中で永遠に輝き続けるだろう。


 思い出がつまったこの家をいざ出て行こうとすると、やはり離れがたい衝動がこみ上げてきてしまう。


 でも、これは僕自身が決めたことでもあるから。深月さんを守るためにも別々の場所で暮らそうと心に決めたのは、他ならぬ僕自身だから。


 だから、別れの悲しみに沈むばかりではなく、僕たち二人が幸せになるための新たな第一歩なのだと前向きにとらえよう。


 すっかり空になった僕の部屋を思い出と共に眺めていると、ふいに、深月さんが後ろから僕を抱きすくめてきた。


「万央くん」

「どうしたの? 急に」

「私、これから一人でやっていけるかな……」


 深月さんは不安げな声をもらし、僕の背に顔をうずめ、バックハグする腕にさらに力をこめる。

 僕は、そんな深月さんの細い腕に、自分の手を重ねた。


「大丈夫だよ。深月さんは一人じゃない。離れていても、心はすぐそばにいるよ。だから、困った時はいつでも僕を呼んで。いつだって深月さんの元へ駆けつけるよ。そして、深月さんの弱音のすべてをちゃんと受け止めるから」


 『自立する』とは、なんでも一人でできることじゃなく、心が弱った時にちゃんと助けてと言えることだと思う。


 だから、辛かったり、憂鬱になったり、不安に駆られたり、恐怖におびえたり……心に暗い影が射すようなことがあれば、遠慮なく僕を頼ってほしい。


 僕はこれまで通り、全力で深月さんを支えようとするだろう。だって、深月さんを守り続けることが僕の使命であり、深月さんの幸せが僕の幸せでもあるのだから――。


 まもなくインターホンがなり、マンションのエントランスに夢羽さんが姿を現した。僕たちは一階の自動ドアを開け、ついに夢羽さんを家に招き入れた。


「やあ、いらっしゃい」

「こんにちは、万央さん。素敵なマンションですね」


 淡いピンクのワンピースにポシェットを肩からかけた夢羽さんは、さすがはアイドルの卵だけあって今日もあいかわらず可愛らしい。


 夢羽さんがおずおずと緊張した声で僕にたずねる。


「それで、今日は例の従姉のお姉さんもご一緒なんですか?」

「あら、万央くんのお友達? ずいぶん可愛い子ね」


 僕の背後から、ついにその従姉のお姉さんが登場した。

 夢羽さんがその人物の正体を知って驚愕の声を響かせた。


「えっ!? 三船深月さん!?」

「ありがとう、私のことを知っていてくれて。六川夢羽ちゃんだったかしら。さあ、上がって」


 深月さんがアイドル然とした光の粒子をふりまいてフッと笑う。


 ダボッとした大きめのTシャツに黒縁めがねをかけショートパンツに足を通した、ちょっとだらしのない普段着の深月さんはどこにも見当たらない。

 今の深月さんは、ノースリーブの白いシャツにタイトな黒いスカートを履き、エレガントな大人の女性の美貌を存分に輝かせている。清楚でクールな偶像の深月さんの本領発揮だ。


 さすがの夢羽さんも冷静さを保てず、興奮ぎみに僕に迫って来た。


「ど、どういうことです、万央さん! 私の目の前にあの三船さんが! 三船さんがっ!?」

「夢羽さん、落ち着いて。今までずっと言えずにいたけど、実は、僕の従姉はアイドルの三船深月さんなんだ」

「そっ、そういう大事なことは最初に言ってくださいっ!!」


 夢羽さんがまるで子犬みたいにきゃんきゃん吠えたてる。


 こんなに焦った彼女を見るのは初めてだ。


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