第32話

 夢羽さんは僕を連れて校舎をひとしきり散策すると、最後には図書室に戻って来た。

 下校時間が近いからだろうか、図書室には人影がまるでない。


 夢羽さんは斜陽が射しこむ図書室を見わたし、それから僕と内緒話でもするかのように、ひそひそと小声で告げた。


「今、私たち以外に誰もいないみたいですね」


 夢羽さんはまるで僕と秘密を共有するかのように言い、普段の彼女の定位置であるカウンターへと歩を進める。


「ここで万央さんとお会いしたんですよね」


 しみじみと感情のこもった声で告げる夢羽さん。どうやら初めて僕たちが出会った時の記憶をたどっているみたいだ。


「私、馬鹿だったんです。一人になりたくて選んだ場所が図書室だったなんて」


 夢羽さんが僕を見上げ、苦笑する。


「ここにはたくさんの本があって、まだ知らない書き手の皆さんの大切な想いであふれ返っています。いわば図書室は出会いの宝庫。それなのに、私は一人になりたいと願い、ここで自分の世界にこもろうとした。本を読むということは、誰かの想いにつながるということなのに……。それなのに一人ぼっちを気取って、孤独を決めこんで。ちょっぴり恥ずかしいです」


 夢羽さんは照れくさそうな微笑をこぼし、じっと僕を見つめる。


「でも、万央さんとの出会いが私に気づかせてくれました。私は知らず知らずのうちに誰かとつながっていて、時には心が温まるような幸せな出会いも訪れるのだと――」


 夢羽さんが一歩前に進み出て、僕の手を取る。たちまち柔らかい感触に包まれて、僕の手もしぜんと熱を帯びていく。


「万央さん。私、もう少し他人とつながる努力をしてみようと思います。繊細で臆病で、今でも怖いと思うことはたくさんありますが……。万央さんは私に教えてくれました。誰かと一緒にいられる心地よさも、手をつないだ時の温もりも、世界が広がる高揚感も、何もかも。だから、本気でアイドル目指して頑張ってみようと思います。私も誰かの心を温めることのできるような、そんなアイドルになれるように」

「うん。きっとなれるよ、夢羽さんなら」


 僕は笑顔で励ますように告げた。


 僕は信じている――アイドル六川夢羽の可能性を、輝かしい未来を。そして、僕はアイドルの世界に夢羽さんを引きこんだ張本人として、責任を持って夢羽さんを追いかけていくつもりだ。


「私にとって、万央さんとの出会いは奇跡でした。感謝してもしきれません」

「僕は何もしていないよ。そもそも、夢羽さんが僕に熱心に声をかけてくれたのがきっかけだったし」

「ふふっ。あの時は私も必死でしたから。万央さんが何かストレスを抱えているのなら、助けてあげなくちゃって。今にして思えば、ずいぶん余計なことをしたものです」


 夢羽さんが恥ずかしそうにしゅんとうつむく。


「僕は嬉しかったよ。おかげで、こうして夢羽さんと仲良くなれたんだもの」

「私もです。今ではあの時の私を褒めてあげたいです」


 夢羽さんは冗談めかして笑い、それから、頬を真っ赤に紅潮させながら、僕に身を寄せてきた。


「万央さん。今日は私に付き合ってくださってありがとうございました。私のわがままもこれが最後です。どうか受け取ってください――私たちの出会いに感謝と祝福を」


 夢羽さんが僕のにぎった手を組み直し、恋人つなぎを求めて指を絡めてくる。そして、ちょんと爪先立ちになって目を閉じ、顔を近づけると、そのまま僕と唇を重ねてきた。


 思いがけない夢羽さんとのキスに、心臓が大きく跳ね上がる。

 全身がカアァッ! と熱くなって声も出せずにいる僕を見て、夢羽さんがおかしそうに笑う。


「アイドルを目指すなら恋愛は当分控えないといけませんから、その前に、どうしても経験しておきたくて……。ごめんなさい。ずっと前から、万央さんとこうしたいと思っていました」


 夢羽さんが紅葉よりも濃く顔を真っ赤に染め上げて、秘めた思いを告白する。


「もしかして、万央さんは初めてではありませんでしたか?」


 おずおずと、僕の表情をうかがうような視線を向けてくる夢羽さん。そして、小さなため息をついた。


「……その様子だと、どうやら初めてではなさそうですね。さすが万央さん、手慣れていますね。私はいったい何人目の女なんです?」

「ご、誤解だって。ちょうど昨日の夜、僕も初めてを経験したばかりで」

「あうぅ……あと一日早ければ……っ」


 夢羽さんが両手で顔をおおって悔しそうにしゃがみこむ。

 それから、人差し指と中指の間から恨めしそうな目をのぞかせて、僕にたずねた。


「……万央さん。以前、誰とも付き合ったことがないとおっしゃっていましたよね? あれは嘘だったんですか?」

「嘘じゃないよ。今でも誰とも付き合ったことはないし」

「では、いったいどなたとキスなさったんです?」

「従姉のお姉さんと」

「もう、また従姉のお姉さんですか。何でもしてくださるんですね、そのお姉さんは。……もしかして、まさかキスより先の行為もすでになさっているとか?」

「キスより先って?」

「わ、私も小説で読んだくらいで、詳しくは。とにかく、何もないならいいんです」


 夢羽さんがようやく立ち上がり、胸に手を当て、安心したようにホッと息を吐き出す。耳まで真っ赤に染まっていた。


 それにしても――。


 夢羽さんといると不思議と何でも話せてしまう。この親しみやすさの理由はなんだろう? 同級生だから? それとも、夢羽さんが優しい人だから?


 それもあるかしれないけれど、きっと一番の理由は、夢羽さんが己の弱さも繊細さも、何もかもすべて正直に僕に話してくれたからなんだろうな。


 だからこそ、僕も夢羽さんには何だって打ち明けようという気持ちになる。


「……でも、僕はもう離れようと思っているんだ。その従姉のお姉さんから」

「と言いますと?」

「実は、僕は今、その従姉のお姉さんと二人で暮らしているんだ。でも、このままだといつか距離を間違えてしまいそうで、怖くて。だから、近いうちに引っ越そうかなって」


 昨日の夜は、深月さんが僕に「キスシーンの練習相手になってほしい」と言い出したおかげであんなことになってしまったけれど、同じようなことは二度とあってはならないと思う。


 だって、深月さんは皆のアイドルだから。どんなに望んでも、もう僕だけの憧れの従姉のお姉さんではいられない存在だから。


 清楚で知的でクールで誇り高い、そういう偶像としてのアイドル三船深月をファンは待ち望んでいる。そして、深月さんもまた、みんなの想いに応えたいと懸命に頑張っている。


 それなのに……。


 僕は引力に吸い寄せられるように深月さんを求め、深月さんもまたそんな僕を少しも拒まず受け入れてくれた。

 僕も深月さんも、長年募らせてきた密かな想いを重ね合わせるかのように、互いを求め合った。


 きっと衣知花さんは僕たち二人がいつかこうなってしまうことを予見していたんだ。

 だからこそ、引っ越しを急がせたのだ。この先深月さんが炎上したり、『A-DRESS』が存続の危機を迎えたりすることのないように。


 昨日の出来事はほんの一時の過ち。きっとそうでなくちゃいけない。

 だから、僕から深月さんの元を離れていこう。深月さんの未来のためにも。


「そうでしたか。距離感ってすごく大事ですもんね。万央さんはその従姉のお姉さんが好きなんですか?」

「うん。でも、好きになってはいけない人だから」

「難しいですよね、距離感って。私もつくづくそう思います。私も人間関係があまり得意ではないので」


 まもなく閉室時間となり、僕たちは図書室を後にした。


 二人で放課後の廊下を歩いていると、それまでうつむきがちだった夢羽さんがふいに僕の横顔をのぞいてきた。


「どうしたの? 僕の顔に何かついてる?」

「いえ、その……先ほど万央さんが引っ越しをなさると言っていたので、もしかしたら、私と同じように一人暮らしを始めるのかなって」

「うん。そういうことになるのかな」

「一人暮らしって意外と大変ですよ。料理とかお掃除とか、洗濯とか。万央さんにちゃんとできます?」


 夢羽さんはそこまで言うと視線をそらし、それから少し間をおいて、たまりかねたように口を開いた。


「もし私でよければ、これから毎日万央さんのお世話をしてあげましょうか? 私でよければ何でもしますよ?」


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