第31話
「お待たせしました、万央さん」
放課後、図書室で本を読んで待っていると、まもなく夢羽さんがスクールバッグを肩にかけてやって来た。
夢羽さんとは別々に教室を出て、人目を避けて図書室で落ち合う。いつもの習慣だった。
「またストレス関係の本を読んでいたんですか?」
「うん。最近、心理学に興味が出てきてね」
僕は読んでいた本を閉じ、棚に戻した。
進路についてはまだ決めていない。けれども、今すぐ進路を決めろと言われたら、迷いなく「心理学を学んでみたい」と答えるだろう。
だって、そうすることでもっと上手に深月さんや夢羽さんを励ましてあげられそうな気がするから。
こんな僕でも誰かの役に立てるかもしれない。そんな期待感が、僕の進むべき路をしぜんと決定づけてくれるのかもしれない。
僕は夢羽さんと一緒に図書室を後にし、誰もいない中庭へと場所を移した。
そして、普段二人でお弁当を食べているベンチに並んで腰を下ろした。
「で、僕に大事な話って?」
こちらから切り出すと、夢羽さんはポッと頬をわずかに赤らめ、おろおろと視線を泳がせ、そしてついに覚悟を決めたのか、小さな口をようやく開いた。
「じ、実は……」
「実は?」
「お、オーディションに合格しましたっ!」
えいっ! というかけ声が聞こえそうなほどの勢いで、夢羽さんが堰を切ったように打ち明ける。
僕もまた、自分のことのように嬉しくなって、喜びの声を弾ませた。
「おめでとう、夢羽さん」
夢羽さんはまだ夢見心地なのか、火照った頬に両手を当て、うろたえながら話を続ける。
「ほ、本当に私なんかが受かってよかったのでしょうか?」
「もちろんだよ。僕は合格して当然だと思うよ。だって、夢羽さんはこんなにも可愛らしい人なんだもの。夢羽さんの魅力がきっと審査員の人たちにも伝わったんだね」
「もう、万央さんったら……」
夢羽さんはさらに頬を紅潮させ、丁寧にお辞儀をする。
「ありがとうございます。これも万央さんのおかげです。万央さんが、私ならきっと三船深月さんを超えるアイドルになれるって言ってくれたから……その言葉に支えられて、なんとかここまで来られました」
「うん、夢羽さんならきっとなれるよ。この先たいへんなレッスンが待っていると思うけれど、夢羽さんならきっと乗り越えられるって信じているよ」
「はい。まずは研修生からということなので、レッスンを頑張ろうと思います。それで……」
夢羽さんがもじもじと左右の指を遊ばせながら、うかがうような上目づかいで僕にたずねる。
「万央さんは覚えてくれていますか? 私との約束を」
「約束?」
「アイドルフェスの帰り道で、万央さん、私と約束してくれましたよね? もし私がオーディションに受かったら、ご褒美に、一つだけわがままを聞いてくださるって」
たしかに、僕は夢羽さんとそんな約束を交わしていた。もし落ちたら慰めに何かごちそうする。逆に受かっていたら、わがままを一つ聞いてあげる、って。
「そうだったね。いいよ、何でも言って。夢羽さんのわがままを」
僕は自分の胸に手を当て、夢羽さんに催促する。
すると、夢羽さんは赤らんだ緊張した顔で、僕にそっと願い出た。
「それなら――これから私と一緒に、校舎をお散歩してくれませんか?」
おずおずと、挑むような表情で夢羽さんが僕を見上げる。
「え? そんなことでいいの?」
「はい。実は入学してからこれまで、教室と図書室との間を行き来するくらいで、まだ行ったことのない場所がたくさんあるんです。万央さん、お付き合い願えますか?」
「それは構わないけど、せっかくだもの。もっとわがままなことを言ってくれてもいいんだよ」
「わがままなことって、たとえば?」
「『ぎゅってして』とか『いい子いい子して』とか」
僕は深月さんなら言いかねないようなことを並べ立ててみる。
「そっ、そういうのは破廉恥だと思いますっ!」
すると、夢羽さんは完熟トマトみたいに真っ赤に染め上げた顔を両手でおおい、うろたえ出した。頭からもうもうと白い湯気が吹き上がっているのが見える。
そうか、深月さんは破廉恥だったのか。それとも、夢羽さんがウブなのか。きっとどちらも正解なんだろうな。
こうして、僕たちは夕陽が射しこむ放課後の校舎を一緒に歩き始めた。
「へえ、生徒会室ってこんなところにあったんですね」
「さすが、三年生の先輩方はこの時間でも教室に残って勉強しているんですね」
「この入部案内のポスター、可愛い~」
「あ、ピアノの演奏が聞こえてきますね。誰かこっそり音楽室に忍びこんだのでしょうか?」
夢羽さんは行く先々で目に留まったものにいちいち反応し、感心したように声をもらした。ちょっとした探偵気分だ。
僕は夢羽さんに付き添いながら、ふと疑問を口にした。
「ところで、どうして僕にこんなお願いを? 校舎の中の行ったことのない場所をめぐるだけなら、一人でも出来たと思うんだけど」
「ごめんなさい。ご迷惑でしたか?」
「いや、そういう意味じゃなくて。ただ、どうしてなのかなって」
すると、夢羽さんはうつむきながら、ためらいがちに本音を打ち明けた。
「……今のうちに慣れておこうと思って」
「何に?」
「周囲の視線に」
夢羽さんが真剣な声で言う。
「私、過度に周りの目を気にするところがあって、以前ならこうして万央さんと並んで歩くことさえ抵抗を覚えたと思います。でも、この先もし本当にアイドルとしてデビューするようなことになったら、もっと不特定多数の目にさらされることになると思うので、それで」
「僕と一緒に校舎を歩いていて、仮に周りから視線を集めるようなことがあっても大丈夫なように鍛えておこうと思ったってこと?」
「ふふ、そんなところです。おかしいですよね? 以前は噂の対象になりたくない、誤解されたくないと思って、万央さんを避けようとさえしていたのに……いつからか、しだいに誤解されてもいいと思うようになって……今では『誤解されたい』とさえ思うこともあるんです。……私はいったいどうしてしまったのでしょう?」
夢羽さんは胸がつまりそうな声でしんみりと告げる。
それから、気丈にも顔を上げ、背筋をぴんと伸ばして言った。
「それと……克服したいって思いもあって」
「克服?」
「はい。私、母の影響もあって、学校をずっと怖い場所だと感じてきましたから。そういう恐怖心も少しずつ解消していけたらいいなって」
夢羽さんが廊下の窓側へと歩み寄り、窓の外に広がる景色を眺めやった。
校庭からは運動部のかけ声が響き、赤い夕陽が遠くに立ち並ぶビル群の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
夢羽さんが窓を開け、外にわずかに顔を出す。たちまち心地よい風が吹きこんで、夢羽さんの綺麗な髪が風に遊ばれるようになびいた。
夢羽さんが髪を耳にかけながら、かすかに微笑む。
「みんなにとっては何でもない校舎でさえ、私一人ではとても怖くて歩き回れなかった。それが、万央さんと一緒だとこんなにも楽しい。学校って、不思議なところですね。一緒にいる人が誰かによって、見える景色がまるでちがう」
そうして夢羽さんは外の空気を吸いこむと、気持ちよさそうに目を細めた。
「――ああ、校舎から眺める夕陽って、こんなにも綺麗だったんですね」
そう告げる夢羽さんの晴れやかな横顔は、夕陽に照らされてまぶしく輝き、美少女ぶりにさらに拍車をかけている。
僕は一瞬呼吸をするのも忘れ、ただ夢羽さんの純粋な美しさに目を奪われた。
「夢羽さんも綺麗だよ。今、とってもいい顔してる」
「え? あ、ありがとうございます……っ」
「写真撮っておく? 将来、宣材写真とかで使えるかもしれないし」
「そ、それは駄目ですっ。まだ心の準備が……っ」
夢羽さんが両手で顔をおおい、写真を撮らせまいとうろたえる。
夕方五時を知らせるチャイムが、放課後の校舎に響きわたる。
僕たちはハッとした顔を見合わせ、それからクスクスと笑い合った。
何気ない、ただの放課後。
そんな日常的でたわいもないこのひと時が、僕にはとても尊いものに感じられた。
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