第29話

 深月さんは僕に薄い冊子を手渡してきた。


「これがその台本だよ」

「見ていいの?」


 深月さんが真剣な顔でうなずく。僕は冊子を手に取り、ページをめくった。深月さんが大まかなあらすじを教えてくれた。


「仲のいい姉弟がいてね。二人は思春期を迎えると、互いを恋愛対象として見始めるの。でも、どうしたって現実世界では姉弟は結ばれない。あらがいようのない運命の恋に悩む二人だったけれど、ある時、事故にあってね」

「それで異世界で転生を果たすんだね?」

「うん。姉は一国の姫として、弟は姫を守る騎士として生まれ変わるんだ。しかも、今度は二人の間に血縁関係はない」

「じゃあ、異世界では結ばれてもいいんだ」

「話はそう単純でもないんだけどね。身分も境遇も異なる二人だけれど、やがて二人は現実世界での記憶を引きずりながら、夢のような逢瀬を果たすの。姉弟としての葛藤を乗り越えた二人はついに結ばれるんだ」

「それで、この台本は最後の二人が結ばれるシーン?」

「そうなんだけど……万央くんにお願いできるかな?」

「でも、キスシーンなんでしょう? あ、でも本当にキスするわけじゃないのか」


 キスするふりでいいんだよね?

 そう思い当たってたずねると、深月さんは頬をカッと赤らめながら、ためらいがちに告白した。


「――ううん、ちゃんと練習しよ。キスの」


 僕を見つめる深月さんの瞳に潤いが増す。深月さんは思いつめたような顔でさらに続ける。


「だって、この先お芝居でキスを求められることだってあるかもしれないじゃない? だから、ちゃんと練習して少しは慣れておきたいなって」

「でも、初めてなんでしょう? 大切な初めては好きな人としたいって」

「だから、万央くんにお願いしているんじゃない」


 深月さんが僕の胸に柔らかい手を這わせ、うっとりと僕を見上げる。


「……私に万央くん以上に大切な人なんていないよ」


 深月さんが声を震わせて訴える。

 僕を見つめる深月さんの純粋な瞳から、ひと筋の涙が頬を伝い落ちた。


「ごめんね、こんな夜中に急に変なお願いをして。でも、これはあくまで練習だから。万央くんは軽い気持ちで練習に付き合ってくれたらいいからね」

「そう言われても……」

「私とじゃ嫌? 私とは練習でもキスできない?」

「ううん、そうじゃなくて」


 僕の心臓がドキドキと鼓動を速める。

 深月さんの情熱的な目に見つめられると、恥ずかしさがこみ上げてきて、思わず顔を背けたくなってしまう。

 深月さんはベッドに仰向けになり、両手を広げて僕を受け入れようとする。


「……来て、万央くん。すべてお姉ちゃんに任せてくれればいいからね」


 優しい声に誘われて、僕は深月さんの身体を労わりながら、遠慮がちに覆いかぶさる。

 僕が見下ろす視線の先で、深月さんがはにかんだ悪戯っぽい笑みを浮かべている。


「ふふっ。まさか万央くんとこんな夜が来るなんてね。大人になったね、万央くんも」

「からかわないでよ、もう」


 僕は頬が熱くなるのを感じながら、シーツの上に台本を広げた。

 深月さんが楽しそうに説明する。


「その台本に描かれているのは、騎士である弟くんが、お姫様であるお姉ちゃんを衝動的にベッドに押し倒しちゃうシーンだよ。だから、お姉ちゃんのこと、ちょっとくらい乱暴にしてくれてもいいからね」

「そういうわけにはいかないよ。深月さんはアイドルだもの」

「もう、真面目なんだから。ここは強引なくらいでちょうどいい……」

「真面目だよ。だって――僕だって、深月さんのこと、大切に思っているから」


 深月さんの言葉をさえぎり、恥じらいながら僕に許される精一杯の想いを告げると、


「万央くんったら……」


 深月さんが目を細め、いっそう表情を和らげた。


 それから、深月さんはすでに台本を暗記しているのか、紙面に書かれた一行目を見事にそらんじてみせた。


「『やっ、やめなさい! あなたは自分が今何をしようとしているのか分かっているの?』」


 深月さん渾身の、真に迫る演技。

 たちまち部屋に緊張感がただよい始め、まるで稽古場にいるかのような雰囲気に包まれていく。


 僕は深月さんに引っ張られるように、少しの余裕もない声で次のセリフを読んでみせる。


「『ずっと姉さんと結ばれたいと思っていた。姉さんが綺麗になればなるほど、姉さんがはるか遠くに離れて行ってしまうような気がして……。だから、俺は騎士となった。姫に忠誠を誓い、姫に仕え、姫を最後まで守り抜く。そんな騎士になってみせた』」

「上手よ、万央くん。そのまま続けて」


 僕は一息つき、さらにセリフを音読する。


「『それなのに、姉さんは俺を遠ざけ、距離を置こうとばかりする。……だけど、日に日に美しさを増していく姉さんを、ただ指をくわえて見ていることしかできないだなんて、俺にはもう耐えられない! 俺は誰よりも近くでずっと姉さんを見守ってきた。春の木漏れ日の中でも、真夏の太陽の下でも、黄金色に輝く秋の夕景でも、小雪が舞う冬景色の夜だって、ただ一途に姉さんだけを見つめてきた!』」


 僕にはこの騎士の気持ちが分かる気がした。


 深月さんもどんどん綺麗になり、やがて僕だけを故郷に残して上京してしまった。

その時に感じた寂しさや喪失感は、幼い僕には計り知れないものだった。

 その後、まさか一緒に住もうと提案されるとは夢にも思わなかったけれど。


「『姉さんをずっとこの手で抱きしめたかった。けれども、けっして許されないことだと自分に言い聞かせてきた。でも、今夜だけは、自分の気持ちに嘘はつけない。俺は姉さんを誰にも渡したくない! 朝も夜も、永久にずっとこの腕の中に閉じこめておきたい!』……ねえ、深月さん」

「なに、万央くん?」

「僕、なんだかものすごく恥ずかしいセリフを読まされている気がするんだけど」

「だねえ」


 深月さんがクスクスとおかしそうに笑う。


「でも、私は嬉しいよ。万央くんにこんなことを言われたら」

「そうなの?」

「うん。相手が万央くんならね。今も万央くんの声が耳にとっても気持ちいい」


 深月さんは僕を見上げ、大切な宝物を包みこむかのように僕の頬を両手でそっと撫で、しかし騎士の気持ちをこばむような言葉を口にする。


「『それ以上は言わないで……。今の私は一国の姫。あなたの姉でいられた遠い昔とはちがう。今の私には、この国の運命を左右するほどの価値がある。明日、私は隣国の王の元に嫁ぎ、何千、何万もの民を救うことになるでしょう。あなたはそんな私の肌に触れようというの?』」

「『姉さんはそれでいいのか? 姉さんは自分を犠牲にしているだけじゃないか』」

「『自己犠牲は尊いものよ。私は民に望まれる姿を生きる。それがこの国の姫に生まれた者の定めよ』」

「……このお姫様って、なんだか深月さんに似ているね」

「そう?」

「だって、深月さんだってファンに望まれる姿を生きようとしているじゃない。清楚で、クールで、慎ましやかで。普段の深月さんとは少しちがうような」

「ふふっ。少しどころじゃないよね」

「深月さんは自分を犠牲にしていると思う?」

「まあ、たしかに犠牲にしている部分はあるかもね」


 深月さんは眉尻を下げて微笑をこぼす。


「でも、世の中、そういう人はわりと多いんじゃないかな。表面を飾って、本音を押し殺して、自分を犠牲にしてでもキャラを演じ切って。私はたまたまそれが極端なだけ。だから、私はみんなも頑張っていてえらいなって、つくづく思うよ」


 深月さんは胸に手を当て、吐息をもらすように続ける。


「それに、こんな私でも必要としてもらえるのは嬉しいことだから。みんなの期待に少しでも応えたいって思うんだ」


 そう語る深月さんの優しい笑顔には満たされたような充足感があって。


 やっぱり深月さんは天性のアイドルで、この物語のお姫様と同じように、深月さんもまた己の定めを生きているのだと僕には感じられるのだった。 


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