第28話
『喜びなさい、万央! アンタにぴったりの物件が見つかったわ!』
衣知花さんから僕のスマホにもメッセージが届いた。
どうしてだろう? 送られてきた文字を見ただけで、衣知花さんの勝ち誇った高笑いまで聞こえてくる気がする。
『あと二週間もすれば部屋に入れるそうよ。アンタも今のうちに荷物をまとめておきなさい』
まるで反論の余地を与えず命令してくる衣知花さん。きっとこれも深月さんのためを思えばの行為なのだろう。彼女の優しさは、時に僕を困惑させる。
一方、深月さんはというと、
「えぐっ、えぐっ……。万央くんと離れたくないぃ……っ」
以前企業からいただいたお酒の缶を片手に机に突っ伏し、顔を赤らめ、泣き続けていた。哀愁ただようさまが、どことなく捨てられた子犬のそれと似ている。
「深月さん、もうその辺にしておいたほうが」
「お願い! 今日だけは飲ませて、万央くんっ! ……もう何もかも忘れたいの……」
ステージ上のあのクールで清楚な美の女神はどこへやら。まだ日も高いのに、とてもファンには見せられない酔っ払いようである。
「衣知花ちゃんもあんまりよ、私に『もっと強くなりなさい』だなんて……。私に強さを求めないでよっ! それより、心の弱い人でも生きやすい世の中にすべきなんだよ……。ねえ、万央くんもそう思うでしょう?」
「それはそうかもしれないけど」
「だいたい世間が汚れているからいけないんだよ……。従姉弟同士で一緒に住んでいるだけなのに、いったい何が問題だって言うの? 私たち、まだ何もしてないのに~っ!」
悔しそうに机を叩き、長い美脚をジタバタさせる深月さん。まるで駄々っ子だ。
それより、『まだ』ってどういうことだろう? この先、何かするつもりだったのだろうか?
「仕方ないよ。深月さんはアイドルなんだもの。たとえ従弟であれ、一緒に住むことを望まないファンもいるだろうし」
「横暴だぁ! 訴えてやる~っ!」
深月さんが不満げに声を荒らげる。どうやら酔うと手がつけられなくなるらしい。
「ぐすっ……。万央くん、私がいなくなっても心配しないでね……。お姉ちゃん、遠いお空から万央くんをずっと見守っているからね……」
「よけい心配させるようなこと言わないでっ」
「あ、そうか。万央くんを人間だと思うからいけないんだ。このマンション、たしかペット同伴OKだったよね? さっそく万央くんにちょうどいい檻を探して、それから首輪とネコ耳を買って、と」
「深月さん、気をたしかに」
僕は困った顔で苦笑した。言うまでもなく、僕は深月さんのペットになる気はない。
「……おえぇっ。吐きそうっ」
「わあっ! 深月さん、しっかり!」
僕はすぐに深月さんをトイレに連れて行き、しばらく廊下に立ちつくした。そして、嘔吐する声と水が流れる音を聞き終えると、今度は深月さんを部屋へと連れて行き、ベッドに横たわらせた。
「だから飲みすぎだって言ったのに」
「うぅ、反省してます……っ」
こうして僕は酔っ払いのお姉さんを寝かしつけ、買い出しへと出かけて行った。
エレベーターに乗り、マンションの一階へとやって来る。すると、ちょうど引っ越しの荷積みを終えたトラックが止まっていた。
まもなく僕もこのマンションを出て行くことになるのかな……。
寂しいけれど、これもまた運命だ。甘んじて受け入れるしかない。
むしろ、今までが恵まれすぎていたのだ。
アイドルの世界できらめく深月さんと、ただの高校生に過ぎない平凡な僕。そんな二人がこれまで同居してきたこと自体が奇跡なのだ。
もし、僕が家を離れることで深月さんを守れるのなら、僕は喜んで家を出て行こう。
そうして深月さんがこの先アイドルとしてさらなる飛躍を遂げ、幸せな未来を輝かせることができたのなら、僕は本望だ。
〇
「ただいまー。……って、あれ?」
しばらく買い出しをして家に戻ると、深月さんはすっかり酔いから冷め、自分の部屋でパソコンと向き合い、黙々とキーボードを叩いていた。
「深月さん、どうしたの?」
「大学の課題やるの忘れてた」
返ってきたのは、抑揚のない低い声。
黒縁めがねをかけた深月さんは真剣な眼差しを画面に注ぎ、僕には少しも目もくれない。
「そう。頑張ってね」
僕の心にふっと冷たい風が吹き抜ける。
けれども、深月さんの集中力を切らせてはいけないと思い直し、部屋の扉をそっと閉じた。
夕食の時も、
「深月さん、調子はどう?」
「うん、大丈夫。ごちそうさま」
「え、もう食べないの?」
深月さんはよほど課題に追われているのか、食事もそこそこに、寸暇を惜しむように部屋へと戻って行った。こんなに口数の少ない深月さんは初めてだ。
もしかしたら、このひと月あまり、アイドルフェスの準備に忙しくて、大学の課題にはほとんど手がつけられなかったのかもしれない。アイドルと大学生との両立は、僕が思うよりはるかに大変なんだろうな。
その後も深月さんは部屋にこもりきりで、結局ろくに会話を交わすこともなく、静かな夜がただ過ぎていった。
「今日はもう寝よう」
なんとなく心に隙間風が吹きこむような物足りなさを感じながら独り言ち、パジャマに着がえ、ベッドに横になる。
すると、まもなく部屋の戸をノックする音が響いた。
「万央くん、まだ起きてる? 入ってもいい?」
僕は立ち上がり、部屋の明かりをつけると扉を開けた。
「どうぞ。――って、深月さん?」
たちまち、深月さんが僕の身体へと倒れかかってくる。僕は慌てて受け止めて、力なく僕に寄りかかる深月さんを部屋の中へと促した。
とりあえずベッドの縁に深月さんを座らせ、僕もとなりに腰を下ろす。
深月さんはよほど疲れているのか、僕の肩の辺りに頭をあずけ、目を閉じている。
「課題は終わったの?」
「……終わったよ」
返ってきたのは、たったのひと言。普段の明るさはすっかり影をひそめ、僕より年上の大人の女性なのに、ひどく儚げで頼りない存在のように感じられた。
「大丈夫? 寒くない?」
「うん。大丈夫」
深月さんは短く答え、それから目を開くと僕の右腕をぎゅっと強く抱きかかえてきた。
「……万央くん。実は大事なお願いがあるの」
「大事なお願い?」
深月さんが神妙な顔でうなずく。
「実は、今度ドラマのオーディションがあってね。迷っていたんだけど、やっぱり受けてみようかなと思って」
「へえ、どんなドラマなの?」
「『転生したら弟と結ばれた件』っていう小説の実写版なんだけど」
「それって、たしか前に衣知花さんが話していた、深月さんが大好きだったっていう作品だよね」
「うん。コミカライズもされていてね。衣知花ちゃんにはそれを貸したんだ」
「だったら、迷うことないじゃない。オーディション、受けてみたら?」
「……でもね、一つだけ問題があるの」
「問題?」
深月さんはそこまで言うと、澄んだ瞳を怯えるように揺らしながら、まっすぐに僕を見上げ、口を開いた。
「キスシーンがあるの」
そう告げる深月さんの潤んだ唇の先が、かすかに震えている。
「でも私、これまで誰ともキスしたことがなくて……。大切な初めては、やっぱりどうしても好きな人としたかったから……。もう二十歳にもなるのにね。おかしいかな?」
「別におかしくなんかないでしょ。かけがえのない深月さんの人生だもの。誰かと比べる必要なんてないと思うよ」
「ありがとう。万央くんならそう言ってくれると思ってた」
深月さんがかすかに笑う。
「それで、僕に大事なお願いというのは?」
僕がたずねると、深月さんは僕の腕を抱きかかえる力をさらにこめ、迫るような緊張した声で応えた。
「――万央くんに、キスシーンの練習相手になってほしい」
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