第21話
翌朝。
いつもより早めに学校に到着した僕は、教室に夢羽さんがいないのを確認すると、荷物を置き、図書室へと向かった。
朝日が射しこむ図書室は物音一つせず、空気も冷たくて、人の気配を感じさせない。
さすがにまだ来てないか……。
そう諦めかけた時、カウンターの奥にある司書室から夢羽さんが静かに姿を現した。
「万央さん?」
夢羽さんが綺麗な目を丸くする。まさかこんなに早く僕が会いに来るなんて思っていなかったにちがいない。
夢羽さんがわずかに視線を下にそらし、もじもじと僕に問いかける。
「どうされたんです? まだ開室時間ではないのですが……。ちょっと外でお待ちいただけますか?」
「昨日、家に帰ってからもずっと胸の辺りがもやもやしていて、それで、夢羽さんとどうしても早く話がしたかったんだ。まだ連絡先を教えてもらえていなかったから、こうして直接会いに来たんだけど……。少しだけでも話をさせてもらえないかな?」
「分かりました」
夢羽さんがうつむきながら了承する。
「でも、いいんですか? 私なんかと一緒にいて。また噂になってしまったら……」
「僕は夢羽さんとなら噂になってもかまわないよ」
「え、それって……」
夢羽さんがわずかに顔を上げ、上目づかいで僕の表情をそっとのぞき見る。頬がほのかに赤く色づき始めていた。
「それよりも、僕に教えてくれないかな? 昨日の昼休みに僕に告げた、夢羽さんの言葉の意味を」
「私の言葉の意味?」
「昨日、どうしてあんなにも熱心に僕に声をかけてくれたのかをたずねた時、夢羽さん言っていたよね――『心配だったから』って。夢羽さんは僕の何がそんなに心配だったの?」
「借りていた本……」
「本?」
僕が首をかしげたちょうどその時、開室時間を迎えた図書室に、受験を控えて勉強しに来た三年生たち数名が入って来た。
みなカウンターの前を通り抜けながら、もの珍しそうに僕たちを眺めていく。
「…………っ」
夢羽さんが表情を硬くして、形のよい唇をきゅっと嚙む。
それから少し間をおいて、ふたたび口を開いた。
「万央さん、放課後お時間ありますか? よければ人の見ていないところでお話ししたいのですが」
「いいけど、どこで?」
「……私の家に来ていただけませんか?」
〇
放課後、僕は夢羽さんと図書室で落ち合った。
「すみません。お待たせしてしまって」
「ううん。僕も気になる本があったから」
夢羽さんが姿を見せると、僕はたまたま手にしていた『繊細さん』について書かれた本を閉じた。
同じクラスに所属しているのだから、わざわざ図書室で待ち合わせする必要もないのだけど、一緒に教室に出るのは恥ずかしいから、と夢羽さんがこの場所を指定してきたのだった。
「…………」
夢羽さんが、僕が閉じた本の表紙を目にしてわずかに表情を曇らせる。
「どうかした?」
「い、いえっ。では参りましょうか」
夢羽さんがにこやかに微笑み、僕を外へと誘い出す。
こうして僕たちは人目を避けるように昇降口を過ぎ、正門を抜けて行った。
夢羽さんが僕のとなりをうつむきながら歩いている。
彼女は今、いったいどんなことを考えているのだろう?
気になって、声をかけてみた。
「こうして一緒に下校するの、初めてだね」
「はい……」
夢羽さんが言葉少なにただうなずく。
「夢羽さん、もしかして緊張してる?」
「それはもう。こんなところを誰かに見られたら」
「クラスメイトが一緒に帰るなんて、特別なことじゃないと思うけど」
「でも、そうは言っても男女二人きりですし。それに、これから万央さんを自宅にお招きするのかと思うと……ずいぶん大胆なお誘いをしてしまったなと、朝からずっとドキドキしていました」
頬を朱に染めた夢羽さんが、胸にそっと手を当て、独り言のように打ち明ける。
夢羽さんの緊張感が、となりを歩く僕にも伝染してきた。
よく考えてみたら、同級生の女の子の部屋を訪ねるなんて初めてだ。深月さんの部屋に呼ばれるのとは訳がちがう。夢羽さんのお母さんにお会いしたら、いったいどんなご挨拶をすればいいのだろう?
深月さんの部屋にはコスメがいっぱい置かれていたりするけれど、夢羽さんのイメージとはあまり結びつかない。
「夢羽さんって、普段どんな部屋で過ごしているの?」
「万央さんにはあまり面白い部屋ではないかもしれませんね。本が並んでいるくらいで」
「昔から本が好きだったの?」
「そうですね。本を読んでいる時間が一番落ち着きますので。時間を忘れるくらい夢中になって、あとで意外と時間が経っていて驚いたり。でも、そういう時間が私にとってはかけがえなく愛おしいんです」
読書の魅力について語っている時の夢羽さんは自然体で、身構えている感じが少しもせず、むしろ熱がこもっていてなんだか微笑ましい。
声も可憐で耳あたりがよく、このままずっと夢羽さんの会話を聞いていたくなる。
「あ、もちろん音楽を聴くのも好きですよ。特に、万央さんから『A―DRESS』の曲を薦めていただいて、ますます世界が広がりました」
「それならよかった。無理に僕の趣味に合わせてくれたわけじゃないんだね」
「はい。恥ずかしながら、私もすっかりハマってしまいまして」
夢羽さんがはにかんだ笑みをこぼす。僕への気づかいからではなく、本心で楽しんでもらえていることが何より嬉しい。
こうして二人で会話を弾ませていると、
「着きました。こちらです」
まもなく夢羽さんの家にたどり着いた。
そこは、僕の予想に反して、通りに面した二階建てのアパートだった。
「さあ、どうぞ」
夢羽さんに促され、小さな玄関で靴を脱ぎ、遠慮がちに部屋の奥へと進む。扉を開けて目に飛びこんできたのは、六畳ほどの夢羽さんの生活空間だった。
白いレースのカーテン、大きな本棚、ベッド。そして学習机と小さい丸いローテーブルが置かれただけの、整然と片づけられた落ち着いた部屋。
さらに壁には『A―DRESS』のTシャツが綺麗にハンガーに掛けられていた。
「あれ、ご家族は?」
「ああ、家族とは離れて暮らしていているんです。だから、今は一人暮らしです」
「え――?」
僕は少なからず動揺した。まさか夢羽さんが一人暮らしだったなんて。
まるで秘密の花園に迷いこんでしまったかのようにとまどう僕に、夢羽さんが甘くささやくように告げる。
「このことは誰にも言わないでくださいね。うちに人を呼ぶのは万央さんが初めてですから。そして、この先もきっと……。万央さんだけは特別なんです」
夢羽さんは、しーっ、と立てた人差し指を形のよい唇に当て、クスッと笑う。学校で見せる顔とはちがう、夢羽さんの悪戯っぽい笑み。
「今、お茶をお入れしますね。そこに座っていてください」
夢羽さんが玄関近くの小さなキッチンへと去っていく。僕は緊張や動揺や不安やわずかな高揚感などといった様々な感情を抱えながら、素直に腰を下ろす。
「お待たせしました」
まもなく、夢羽さんが可愛らしいお盆にティーポットとカップを乗せて戻って来た。
夢羽さんが、僕のすぐ目の前に座り、優美な手つきでカップに紅茶を注ぎこむ。
小さなローテーブルに隔てられているとはいえ、手を伸ばせばすぐに触れることができてしまうほど、二人の距離はわずかでしかない。
しかも、誰の目にも触れられることのない密室に、高校生の男女が二人きり……。
――『夢羽はね、アンタのことが大好きなの』
――『夢羽ちゃん、きっと万央くんのことが好きなんだよ』
衣知花さんと深月さん、二人のお姉さんたちのアドバイスが耳の奥でざわつき始める。
この状況って、やっぱりそういうことなのかな……?
注がれた紅茶以上に、僕の頬が火照って熱くなる。
夢羽さんは僕の表情をうかがうようにじっと見つめ、口元に甘美な笑みをほころばせる。
「さあ、ここなら気がねなく本当の気持ちをお話できるでしょう? 今日は遠慮なさらず、私に何でもおっしゃってくださいね。万央さん」
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