第17話
翌朝。
夢とも現実ともつかないような朦朧とした意識の中で、ふいに顔の辺りに気配を感じた。
「ん……」
重いまぶたをうっすら開き、ぼんやりと宙を見上げると、
「……深月さん?」
なぜか深月さんが顔を真っ赤に染め上げて、きゅっと目をつむり、耳の辺りで髪をかき上げ、可愛らしく尖らせた唇をぷるぷる小さく震わせながら、僕の顔へと迫っていた。
「きゃっ!」
僕が目を覚ましたと気づいて、深月さんが短く叫ぶ。小鳥がさえずるような可憐な声だった。
僕はまだ眠たい目をこすりながら、ゆっくりと上体を起こす。
「お、おはよう、万央くん」
「おはよう、深月さん。ところで、今僕に何かしようとしていなかった?」
「う、ううんっ。何もしてないよ、まだ」
「まだ?」
「えへへ。もうちょっとだったんだけどね」
目をそらし、頬を軽く引っかきながら、ごまかすように笑う深月さん。ますます怪しい。
「そんなことより、万央くんったら、ぜんぜん起きてこないんだもん。それで心配になって様子を見に来たら、死んだように眠っているから。もしかして、起こしちゃ悪かった?」
「いや、もう起きなきゃいけない時間だから。朝ごはんの準備もしなきゃだし」
「準備ならしておいたよ」
「え?」
「だから、朝ご飯なら作っておいたよ、私が」
深月さんの得意げな顔が、部屋に射しこむ朝日に照らされてますます輝く。僕の意外そうな反応が、深月さんをさらに喜ばせているみたいだ。
「ごめんね、深月さん。昨日帰りが遅かったのに」
「ううん、気にしないで。私がしたくてしただけだから」
深月さんがクスッと笑う。
「でも、万央くん、今日は学校お休みでしょう? 眠かったらまだ寝ていていいよ。後でゆっくり食べて」
「そういうわけにはいかないよ。せっかく作ってくれたんだもの。一緒に食べよう」
「そう? じゃあ、先に行って待ってるね」
深月さんが声を弾ませて部屋を出て行く。
深夜に見せた、絶望の淵に立たされたかのような沈み切った泣き顔の暗い影はもうどこにも見当たらない。どうやら完全に立ち直ってくれたみたいだ。
顔を洗い、ダイニングにやって来ると、テーブルにすでに料理が並んでいた。いつになく豪勢な朝食だった。
「あれ? 今日は何かの記念日だっけ?」
「そういうわけじゃないんだけど、たまには万央くんに美味しい物を食べさせてあげたいなって」
「それは嬉しいけど、時間がかかったでしょう? 寝不足じゃない?」
「はい。おかげですっかりハイになってます」
深月さんがおかしそうに笑みをこぼす。今朝の深月さんは機嫌がいいみたいだ。
それから僕たちはテーブルを挟んで座り、「いただきます」の声をそろえた。
僕が食べるのを、深月さんが期待と不安が入り混じったような上目づかいでじっと見つめてくる。
「どう? 美味しい?」
「うん、すごく美味しいよ」
「よかったぁ~」
深月さんがホッとしたように表情をほころばせる。そして、目の前にあった料理を箸でつまむと、今度は僕の前に突き出してきた。
「万央くん。はい、あーん」
慈愛に満ちた優しい笑みを向けてくる深月さん。なんだか子供扱いされているみたいで恥ずかしい。
「いいよ、自分で食べられるから」
「だーめ。ちゃんと食べて。あーん」
「もう、しょうがないなあ」
深月さんが譲る気配を見せないので、やむを得ず、目の前に出された料理に食らいつく。
すると、深月さんは幸せそうに笑みを深め、さらにしみじみと感じ入ったように声をもらした。
「うふふっ。こうしていると、なんだか新婚さんになったみたいだね」
「深月さん、今朝は気分がよさそうだね」
「まあね。夜、万央くんにあんなに励ましてもらえたからね」
「僕でも少しは役に立てたのかな」
「少しどころじゃないよ。万央くんの言葉にまた勇気をもらっちゃった。おかげですっかりやる気が出たよ。ありがとうね、万央くん」
深月さんが感謝の言葉を口にして、くすぐったそうに笑う。
つられて、僕も笑顔になる。
よかった。どんな言葉をかけてあげたらいいのか迷ったけれど、深月さんが少しでも前向きな気持ちになってくれたのなら、これ以上嬉しいことはない。
「万央くんはすごいね。あんなに落ちこんでいた私を、こんなにも簡単にやる気にさせちゃうんだもの。万央くんって、もしかして魔法使い?」
「そんな。大げさだよ」
「ううん、大げさじゃないよ。私にとって、万央くんは何物にも代えがたい精神安定剤だもの。もう片時も手放せないよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど……。でも、本当にそれでいいのかな? なんだか僕がいないと深月さんがおかしくなっちゃうみたいな話しぶりだから」
「ふふ、そうだね」
深月さんは悪戯っぽい目でほくそ笑み、さら僕を見つめながら続ける。
「もう、おかしくなっちゃっているのかもね、私。万央くんがそばにいても、いなくても」
「え?」
「だって、昨日の夜は自分でも驚くくらい万央くんを求めてしまって……あんなこと言うつもりなかったのに。でも、それもこれも、みんな万央くんが悪いんだよ。万央くんのせいでお姉ちゃんがおかしくなったら、ちゃんと責任取ってくれる?」
「僕のせいなの?」
「そう。ぜーんぶ万央くんが悪い」
深月さんが茶目っ気たっぷりに言い、優しい笑みをこぼす。
「とにかく、万央くんは私の精神安定剤でもあり、私を狂わせる劇薬でもあるってこと。まったく、万央くんはお姉ちゃんをこんなにも狂わせて、いったいどうしようって言うんだい?」
「僕にはそんな自覚がないんだけど」
「万央くんはそれでいいよ。早く大人になってね、万央くん」
「もう、また子供扱いして」
僕たちは顔を見合わせ、クスクスと笑い合う。思えばこんなにゆっくりと朝食を過ごしたのは、なんだか久しぶりな気がする。
「とにかく、万央くんのおかげで、お姉ちゃん、すごくやる気になったからさ。今度のアイドルフェス、期待していてよ」
深月さんが瞳に新たな光を宿し、意志のこもった強い声で言い放つ。
「私、万央くんの頭の中から他の女の子の記憶が全部吹き飛ぶくらい、万央くんを魅了してみせるから」
深月さんがメラメラと炎を燃やしながら、ニッと口角を上げる。なんだかゲームやアニメの終盤に登場する強キャラ感がすごい。
「だから、ずっと私だけを見ていてね、万央くん」
有無を言わせぬ、ただならぬオーラを漂わせる深月さん。どうやら僕には他のアイドルに目移りすることが許されないらしい。
もっとも、僕が深月さん以外に目移りすることなんて、なさそうだけどね。
何はともあれ、深月さんのやる気が全回復してくれてよかった。
「それじゃ、今日も元気に行ってくるね。万央くん」
「いってらっしゃい、深月さん」
深月さんが小さく手を振って家を出る。
僕もまた手をふり返り、嬉しそうに去っていく深月さんを笑顔で見送ったのだった。
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