第16話
いつまで待っても深月さんが帰ってこない。
しばらく電子書籍を読んで待っていた僕は、ふとタブレットから目を離し、壁にかけられた時計を見上げた。
すでに夜の十二時を過ぎている。幸い事務所までは近いから、深月さんに何かあれば飛んで迎えに行くつもりではいるけれど、連絡すらまるで来ない。
「心配だなあ、深月さん」
衣知花さんの話では、そうとう調子が悪いようだった。深月さん、レッスンスタジオで倒れていなければいいけど……。
そんな心配をしていると、ようやく家のドアの鍵がカチャリと開く音がした。
慌てて玄関で深月さんを出迎える。
「お帰りなさい、深月さん」
「…………」
ようやく姿を見せてくれた深月さんは、押し黙ったままうつむいて、ひと言も声を発してくれない。よほど疲れているみたいだ。
「お風呂入るよね? 僕、沸かしてくるね」
僕は廊下をふり返り、浴室へと向かおうとした。
すると、その背後から、深月さんがなにも言わずただ僕の腰回りに腕を伸ばし、そのままぎゅっと強く抱きついて来た。
「み、深月さん?」
背中に強く押しつけられた深月さんの柔らかい感触にドギマギする。
しかし、それ以上に、深月さんの身体が小さく震えているのが気になった。
「深月さん、もしかして泣いているの?」
僕がたずねると、深月さんは僕の背中に顔をうずめ、否定するように首を左右に振った。けれども、泣いているのは明白だった。
「今日はもう遅いし、そのまま寝る?」
今度は肯定を示すように首を縦に振る深月さん。レッスン後に事務所でシャワーくらい浴びてきたのかもしれない。
深月さんを部屋まで送る。深月さんはベッドに身を投げ出すように仰向けになり、両腕で顔をおおっている。よほど疲れたのか、あるいはひどく落ちこんでいるのか。どちらにせよ、いつもの元気な姿からは程遠い。
僕はベッドのそばに腰を下ろし、表情を見せてくれない深月さんにそっとたずねた。
「もしかして、また衣知花さんに何か言われたの?」
「…………っ」
深月さんが涙で曇った息をもらす。どうやら図星らしい。
「衣知花さん、強引なところがあるから。一応、僕たちのことを思ってくれてはいるみたいだけど」
夕方に交わした衣知花さんとのやり取りを思い出す。
どうしてあんなに熱心に、夢羽さんと付き合えと僕に迫って来たのかは分からない。けれども、僕や深月さんの幸せを願えばこその行動なのだとは理解できた。
――『愛ってのはね、もらう物じゃなくて与える物なの』
衣知花さんの諭すような声が、ふいに耳によみがえる。
衣知花さんはきっと愛情深い人なのだろう。だから僕や深月さんの世話を焼くし、ファンにとっての幸せも真剣に考えもする。
不器用で、強引で、一方的で、それでいて懐が深く愛にあふれた女性――それが一条衣知花さんなのだ。
深月さんは押し黙ったまま、ひと言も声を発しない。僕は仕方なく立ち上がり、部屋を出ようと思い立った。
そうして後ろをふり返った途端、
「……忘れろって」
「え?」
ようやく深月さんが口を開いた。
深月さんは涙で声を震わせながら、さらに続ける。
「……万央くんのことは忘れろって……衣知花ちゃんが」
僕はベッドに仰向けになっている深月さんへと歩み寄り、腰をかがめて問いかける。
「どうして僕のことを忘れる必要があるのさ。僕、深月さんに忘れてもらいたくないんだけど」
「万央くんには万央くんの幸せがあるから……私が束縛しちゃ駄目だって……」
「僕の幸せ?」
深月さんから告げられた言葉が、僕の耳に引っかかる。
すると、深月さんがさらに絞り出すような細い声で言った。
「万央くん……彼女ができるんでしょう……?」
そこまで言われて、ようやく事態が飲みこめた。まったく、衣知花さんときたら。いくら何でも突っ走りすぎだ。
僕は慌てて否定した。
「それ、衣知花さんが勝手に言ってることだから。僕は夢羽さんと付き合う気はないよ」
「……ちがうの?」
深月さんがようやく腕を払いのけ、まっすぐ僕を見つめる。
部屋に明かりはついておらず、廊下から射しこむ光がわずかに深月さんを照らしている。けれども、深月さんの瞳が涙で濡れているのはよく分かった。
僕は優しい声で深月さんに告げた。
「僕は彼女なんかいなくても十分幸せだよ。だって、こうして昔から憧れだったお姉さんと一緒にいられるんだもの」
「…………っ」
「僕の幸せを願ってくれるなら、僕のことを忘れるなんて言わないで。深月さんにそんなこと言われて、幸せな気持ちになれるはずないよ」
こんな時、深月さんにどんな言葉をかけてあげるのが正解なんだろう? 僕にはその答えがまだ分からない。
本を調べたら正解がどこかに書かれているだろうか? ……ううん。正解なんて、きっとどんな本にだって書かれてはいない。
以前、本に書かれたアドバイスの通りを実践しようとしたら、衣知花さんに否定された。当然だ。深月さんが生きる世界をちゃんと理解していなかったんだもの。
大切なのは、どんな言葉をかけるか以前に、まずちゃんと相手をよく理解すること。深い理解があって初めて言葉も活きてくる。
だから、僕は今まで以上に深月さんに寄り添って。
今まで以上に、深月さんをもっとよく理解しようと努めて。
そうして、深月さんをちゃんと理解した上で、等身大の僕の想いを伝えてあげたい。
それが『誠実』ってものでしょう?
だから、僕は深月さんを大事に思いやりながら、胸の奥からしぜんと湧き出した気持ちをつかまえて、そのまま正直に打ち明けた。
「僕は深月さんに忘れてほしくないよ。だって、僕にとっては、深月さんと過ごしてきたこれまでの日々は、忘れがたい大切な宝物だから」
「万央くん……」
「だから、できればこの先も深月さんと一緒にいたいし、深月さんにも、今まで以上に僕を夢中にさせてほしいな。それこそ僕が深月さん以外の人を忘れてしまうくらいに。アイドルの深月さんなら簡単なことでしょう?」
大きく見開かれた深月さんの目に潤いが増し、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。それから今度は両手で顔をおおい、嗚咽をもらし始めた。
これで良かったのかな?
正解は分からないけれど、少しでも深月さんの励ましになればいいな、と願わずにはいられない。
それにしても、どうして頬がこんなにも熱いのだろう? 部屋が暗くて助かった。もしそうじゃなかったら、僕の火照った赤い顔を深月さんに見られていたかもしれないから。
「ごめんね。すごくわがままなこと言って。とにかく、そういうわけだから。おやすみなさい」
僕はそう言って立ち上がると、部屋を去っていこうとした。
しかし、そんな僕の服のシャツを、深月さんの伸ばした手が掴んで離さない。
「深月さん?」
「……おいで。お姉ちゃんが、万央くんのことをもっと夢中にさせてあげる……」
腕を伸ばし、僕をベッドへと誘おうとする深月さん。切なげな、それでいて妖艶でどこか危うい深月さんの誘惑に、僕の心臓がドクンと大きく跳ねる。
「もう、また変なこと言い出して。今日はゆっくり休んでね。おやすみ」
僕は熱にうなされたような深月さんにそっと布団をかけ、部屋を出て扉を閉じた。
そして、廊下に立ちつくし、気持ちを落ち着けるように「はー」と深い息を吐いた。
「まったく、衣知花さんが衣知花さんなら、深月さんも深月さんだよ」
二人はタイプが異なるけれど、急に突拍子のないことを言い出す点では、案外似た者同士なのかもしれない。二人の仲が良い理由が分かる気がした。
「それにしても、深月さんったら。僕だって、もう子供じゃないんだぞ」
深月さんと一緒にお昼寝をした遠い記憶がよみがえる。深月さん、当時から僕をぬいぐるみのように抱っこしてよく寝てたっけ。
でも、大人になった深月さんに同じことをされたら、僕はとても寝つけそうにない。それほどまでに深月さんは魅惑的な大人の女性へと変貌を遂げ、僕の心を甘くかき乱すのだった。
「はぁ……もう寝よ」
夜はしんしんと更けていく。
僕はようやくベッドに横になると、しだいに意識を手放していった。
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