第14話

 家に帰ると、意外にもすでに深月さんの姿があった。

 まだ夕方なのにカーテンを閉め切り、マイクの代わりにマジックペンを握りしめ、テレビ画面に映し出された映像を見ながらパフォーマンスの練習をくり返している。 

 そして、僕の姿を認めると動きを止め、優しく微笑みかけてくれた。


「お帰りなさい、万央くん」

「ただいま。今日はずいぶん早いんだね」

「うん。まだ病み上がりなんだから今日は早く帰れって衣知花ちゃんが言ってくれて」

「厳しいようで優しいよね、衣知花さんって」

「いつも厳しい分、こういう時にふいに見せる優しさが余計に沁みるんだよね、衣知花ちゃんといると」


 深月さんがタオルで汗を拭いながら軽く笑う。

 深月さんが熱を出して倒れて以来、二人の関係性はますます良好なようだ。


「アイドルフェスまであまり時間がないからね。どんなことがあっても動揺せずに踊れるように、しっかり身体に叩きこまなくちゃ。衣知花ちゃんの期待に応えるためにもね」

「深月さん、ライブはすでに経験済みだよね。それでも動揺するものなの?」

「そりゃそうだよ。何回経験したっていまだに緊張するし、お客さんの歓声にびっくりすることだってあるよ。しかも、今回は他のアイドルさんたちとの合同ライブなんだよ? 野次だって飛んでくるかもしれないし、私たちの番になった途端、みんな急に帰り出しちゃうかもしれないじゃない」

「そんなわけないよ。あいかわらずネガティブだね」

「とにかく、どんなことが起こっても完璧にこなせるように、きっちり仕上げておかなくちゃ。休んだ分まで今日は頑張るよ」


 深月さんがきりりと表情を引き締め、気合のこもった声を飛ばす。深月さんの本気度がうかがえるような、充実したいい表情だ。

 僕はさらに深月さんの気分を盛り上げようと、夢羽さんの話を切り出した。


「そうだ。今日の昼休みに友達と一緒にご飯を食べたんだけどね。その人、深月さんに興味津々で。今度のフェスにも行ってみたいって。一緒に行ってもいい?」

「もちろんだよ」


 深月さんがにこやかに目を細める。


「ふふっ。なんだか嬉しいな、私に興味を持ってくれて。それに、万央くん、普段あまり学校の話をしないから。密かに気になっていたんだけど、友達ができて良かったね」

「うん。向こうから話しかけてくれて。何度も声をかけられてびっくりしたけど、話してみたらすごくいい人で。すぐに打ち解けたんだ」

「いいなあ、いかにも青春って感じで。男の子二人で一緒にアイドルフェスに行くなんて楽しそう」


 深月さんが笑みを深め、スポーツ飲料が入ったペットボトルに手を伸ばす。そして口元に運ぶと、ごくりと喉を鳴らした。


「ううん、その人は女の子だよ。夢羽さんって言うんだ」

「ぶーっ!?」

「わあっ、どうしたの深月さん!?」


 深月さんが急に吹き出し、ごほごほっ! とむせ返る。僕は苦しんでいる深月さんの背中を慌ててさすってあげた。

 深月さんがタオルで口元を拭きながら、僕のほうをふり返る。


「む、夢羽さん……?」

「うん。同じクラスの六川夢生さん」

「もしかして、もう名前で呼び合う仲なの?」

「変かな? 同級生だし、しぜんとそうなったんだけど」

「ちなみに、その夢羽さんって子は、万央くんのことを何て呼んでいるの?」

「『万央さん』って呼んでくれるよ。まだ敬語でよそよそしいけど、声優さんみたいな可愛らしい声でね。本が好きで、よく図書室にいるんだ」

「へえー。そうなんだー」


 深月さんがニコッと微笑む。あれ? なんだかいつもに比べて笑顔が固いような……。


「万央くん。その夢羽さんっていう子は、よく図書室にいるんだよね?」

「図書委員だしね。それが何か?」

「ううん、なんでもないの。あ、いっけなーい! 私、万央くんにずっと教えてあげようと思っていたアプリがあったの、忘れてたー。万央くん、タブレットを貸してくれるかな?」

「いいけど、どうしたの急に」


 僕はためらいがちにスクールバッグからタブレットを取り出し、深月さんに素直に手渡した。

 すると、深月さんは素早い手つきでアプリをダウンロードした。


「ふーっ。これで良し、と」


 深月さんが涼やかな笑みを浮かべてタブレットを返してくる。僕はいぶかしげに画面をのぞきこんだ。


「深月さん、いったい何のアプリを入れてくれたの?」

「電子書籍が無限に読めるアプリだよ。ふふっ。これでもう、わざわざ図書室に行かなくて済むね、万央くん」


 深月さんは暗い顔で微笑むと、ふらふらとリビングを立ち去ろうとする。


「あれ? 深月さん、練習は? どんなことが起きても動揺しないように、きっちり仕上げるんじゃなかったの?」

「お姉ちゃん、急に具合が悪くなってきたから、少し休むね」

「そう……。お大事に」


 深月さんにそう言われては、僕は黙って見送るしかない。自分の部屋へと向かう深月さんの細い背中が、なんだか寂しげに映る。それにしても、さっきまでの本気度や充実感はいったいどこへ?


 こうして、僕はリビングに完全に取り残されてしまうと、ソファーに座りこみ、ため息をついた。


「もっと喜んでもらえると思ったんだけどなあ」


 深月さんにファンの存在を明かして自信をつけてもらおうという僕のもくろみは、どうやら当てが外れたらしい。

 まだ病み上がりだし、無理もないのかな。



  〇



 翌日。


「ただいま……って、あれ?」


 学校から帰って来ると、今度は深月さんではなく、ちがう人物が僕を待ち構えていた。


「ずいぶん遅かったわね。待ちくたびれたわ」

「衣知花さん!?」

「この私を待たせるなんていい度胸ね、万央」


 衣知花さんが怒りのオーラを漂わせながら腕を組み、僕をじっとにらんで仁王立ちしていた。


「衣知花さん、どうしてここに? 家の鍵は?」

「どうもこうもないわ。鍵は深月に借りた」


 衣知花さんは憤然とそう答えると、いきなり僕の制服のネクタイへと腕を伸ばし、力任せにつかんできた。


「アンタ、いったい深月に何をしたの! さあ、早く答えなさい!」

「な、なんのことです!? 僕は何も! く、苦しい……っ」

「嘘をつくとアンタのためにならないわよ。さっさと白状なさい!」

「こ、心当たりがないんですけど」

「本当でしょうね?」


 衣知花さんが苦々しげな目で僕を解放する。

 それから、僕たちは玄関から移動し、先日のようにダイニングテーブルに向き合った。

 衣知花さんは僕が入れた紅茶を飲みながら、ようやく一息つく。


「いいところね。事務所からも近いし、眺めも悪くないし、普段から綺麗にしていて落ち着くわ。これからも時々立ち寄らせてもらおうかしら」

「えっ?」

「なに? 私が来ちゃ不満なわけ? だいたい、アンタたちがおかしなことをしていないかどうか見張る必要だってあるんだからね」

「僕たち、別におかしなことなんてしませんけど」

「アンタじゃない。危ないのは深月のほう。このまま放っておいたら、万央に何をし出すか分かったもんじゃない」

「深月さんだって何もしないと思いますけど」

「分かってないわね、アンタは」


 はあ~っ、と悩ましげに深いため息をつく衣知花さん。なんだか責められているみたいで心苦しいけれど、僕は何も悪いことはしていない、と思う。


「ところで、深月さんに何かあったんですか?」

「あったも何もないわよ。ダンスはとちるわ、フォーメンションは崩すわ、歌詞はまちがえるわ飲み物はこぼすわでもう滅茶苦茶よ。死んだ目をして、完全に心ここにあらずって感じで。もう何年も深月と一緒にいるけど、ここまでひどいのは初めてね」

「重症ですね。それで、深月さんは今どうしているんです?」

「事務所のレッスンスタジオに閉じこめてある。今日はもう居残り確定ね」


 衣知花さんが呆れたように肩をすくめる。


 深月さん、いったいどうしちゃったんだろう? 


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