第12話

 一人の夜はしんと静まり返っていて、なんだか家が呼吸している感じがしない。

 深月さんは体調を崩してあいかわらず眠っている。

 だから、今日は深月さんと一緒に食事をすることもなければ、会話を交わすこともない。


 時間がただビーカーの底に沈殿していくかのように重く流れ過ぎていく。僕はリビングのソファーに座り、寂しさを紛らせるかのように借りてきた本を読んでいた。

 紙面にかかれた文字を目で追っていると、ふいに衣知花さんの声が耳によみがえってきた。



――『たしかに、アンタの言うことは正しいかもしれない。一般論としてはね』


――『でも、そんな慰めの言葉なら私たちにはいらない』



 衣知花さんの叱責するような声が、耳の奥に悲しく響く。

 僕がしようとしていたことは、はたして間違っていたのだろうか?

 なんだか自分が良かれと思って取った行動が、かえって深月さんを深く傷つけてしまいそうで、怖くなる。


 僕はぱたんと本を閉じ、天を仰いだ。

 僕が普段からもっと深月さんの精神的な疲れを取り払ってあげられていれば、深月さんだって体調を崩さなくて済んだのに……。そう思うと責任も感じるし、悔しくてたまらない。


 初めは、本にかかれたアドバイス通りに深月さんに声をかけてあげれば、それでいいと思っていた。

 けれども、衣知花さんに一刀両断にばっさり否定されてしまうと、何が正解なのか分からなくなってくる。

 少しでも深月さんの力になってあげたいと願い、行動を起こしたものの、また振り出しに戻ってしまったような徒労感。僕はこの先どうしていけばいいんだろう? 


 こうして一人で悩んでいると、パジャマ姿の深月さんが、リビングにひょっこり顔を出した。


「万央くん……」

「もう起きて大丈夫なの? 熱は下がった?」

「うん。衣知花ちゃんが持って来てくれたお薬を飲んで寝たら、だいぶ良くなったよ。それより、万央くんのほうこそ大丈夫?」

「え?」

「万央くん、なんだか思いつめたような顔をしていたから」


 深月さんが心配そうに眉根を寄せる。


「僕、そんな顔していたかな?」


 僕は苦笑した。思い悩んでいたことが、そのまま表情に出てしまっていたらしい。

 深月さんが僕のとなりに腰を下ろし、肩を寄せてきた。


「衣知花ちゃんにこの家を出ていけって言われたこと、ショックだった?」

「そりゃあね。僕はこの先もずっとこの家で深月さんを支えていくつもりだったから。でも、僕がいたらいずれ深月さんが炎上するだろうし、そうなったら一番傷つくのは深月さんだって」

「そんなことまで言ったんだ、衣知花ちゃん……」


 深月さんが神妙な顔でうつむく。


「どうして駄目なのかな……。私たちはただの従弟同士で、親の承認だって得ているのに」

「自分の推しが男と住んでいたらどう思う? って衣知花さんが。若い男女が二人きりでいて何もないはずがない、って疑う人もいるからって」

「世間の目って、どうしてそんなに汚れているんだろうね? 私たちがそんな男女の関係になりえるはずないのに……」


 深月さんが僕の手の甲に、自分の手のひらをそっと重ね合わせてくる。そして、滑るように僕の手を撫でたかと思うと、そっと指を絡ませてきた。


「深月さん?」

「もうさ……いっそのこと、そういう関係になっちゃう? どうせそういう目で見られるなら……」

「深月さん? それって、どういう?」

「う、ううんっ! なんでもないの。今のは忘れて!」


 深月さんが焦ったように顔を赤らめ、「私のばかばかっ」と自分の頭をぽかぽか叩きはじめる。深月さん、いったい何を言いかけたんだろう?


「深月さん。耳までものすごく真っ赤だけど。もしかして、また熱が上がってきちゃった?」

「そうかも……。万央くんが家に来てから、もうずっとお熱だよ」


 ますます顔を伏せ、身体を僕に預けてくる深月さん。なんだか今夜の深月さんはずっともじもじしていて落ち着かない。まだ体調が万全じゃないからかな?


「なんかごめんね。私が無理を言って万央くんを家に引きこんだせいで、こんなことになっちゃって」

「ううん、僕は嬉しかったよ。でも、今は『ごめん』を言うのは僕のほうなんだ」

「え? どういうこと?」

「僕、分からないんだ……。どうしたら深月さんの力になってあげられるのか。深月さんが具合を悪くしたのだって僕の責任だし、僕がもっとしっかりしていれば」

「そんなことないっ!」


 深月さんが顔を上げ、怒ったように短く叫ぶ。

 そして、さらに前のめりに僕に迫ると、潤んだ目でじっと僕を見上げ、切なげに訴えかけてきた。


「ねえ……どうして急にそんな悲しいことを言い出すの? 私、本当にずっと万央くんに救われてきたんだよ? なのに、どうして万央くんが自分を責めなきゃいけないの?」

「深月さん……?」

「万央くんは十分しっかりしているし、私にとっては世界で一番頼りになる男の子だよ。それなのに、どうして? 私にはいつも『自信を持って』って言ってくれるのに、万央くんは自分に自信が持てないの? 私はもう、すべてを捧げてもいいと思えるくらい、万央くんのことを最高の男の子だと思っているよ。それなのに、万央くんが落ちこんでいたら……私も悲しいし……私がすごくみじめになる。だって、悪いのは私だから……」


 深月さんはそう言うと僕に抱きつき、胸の辺りに顔をうずめ、しくしくと泣き出してしまった。

 僕はためらいがちに深月さんの背に手を回し、そっとなだめた。

 駄目だな、僕は……。僕がこんなんじゃ、ますます深月さんを傷つけてしまう。改めて気持ちが引き締まる思いがした。

 それからしばらくして深月さんの感情の波が引くと、やがて僕から身体を離し、涙をぬぐいながらニコッと微笑みかけてくれた。


「万央くんは、私にはもったいないくらい頑張ってくれているよ。ご飯も用意してくれるし、本だって私のために借りてきてくれたんでしょう? その本には何て書いてあったの?」

「他人と比べず、自分の成長に目を向けろって。だから僕は、深月さんも周りをあまり気にせず、ありのままの自然体でいればいいって思ったんだ。そんな声をかけてあげたら、深月さんも少しは気が紛れるかなって」

「万央くんの言う通りだよ。私、周りを気にし過ぎちゃうところがあるから」

「でも、衣知花さんにはっきり言われたんだ――そんな甘い考えは通用しないって。深月さんがいるアイドルの世界は、周りから認められて初めて生き残れる世界なんだって」

「フフ、衣知花ちゃんらしいね」

「それで僕、分からなくなっちゃったんだ。深月さんにいったいどんな声をかけてあげたらいいのか」


 ずっと一人で抱えこんでいた悩みを、ついに深月さんに告白する。

 深月さんは慈愛に満ちた優しい眼差しを僕に注ぎこみ、口元をほころばせる。

 それから両手を伸ばすと、まるで宝物にでも触れるかのように、柔らかい手で僕の頬をそっと包みこんだ。


「すごいなあ、万央くんは」

「え?」

「だって、そんなにも私のことを考えてくれていたんでしょう?」


 深月さんが目を細め、満たされたように表情を和らげる。


「私が万央くんくらいの頃は自分のことしか考えていなかった。もしかしたら、今でもそうかもしれない。……でも、万央くんはちがう。ずっと私のことを思って行動してくれている。私はもう、それだけで十分幸せだよ」

「だって、それが僕の役目だから」

「なかなかできることじゃないよ。だからね、私にとって、万央くんの言うことはみんな正しい。万央くんの言うことなら何だって聞くし、私を思ってかけてくれる声なら、どんな言葉だってすごく嬉しい。万央くんの優しさは、私の胸に痛いくらい響いているよ」


 甘くささやくような声で僕を諭す深月さん。

 そして、僕の面倒をよく見てくれた昔のような、お姉さん然とした微笑みを浮かべて言った。


「自信を持って、万央くん。万央くんは、自分のすごさに気づいていないだけだから」


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