第10話
衣知花さんとダイニングテーブルに向き合って座る。
衣知花さんは僕が差し出した温かい紅茶を飲みながら、険しい表情でずっとスマホを眺めている。空気が重くて、会話の糸口がなかなか見つからない。
やがて、僕は沈黙に耐えかねて、恐るおそる口を開いた。
「あの、さっきから何を見ているんですか?」
「物件よ。アンタが今後住むためのね」
「僕、これからもここで暮らしていきたいんですけど」
「駄目よ。自分の推しが男と住んでいたらどう思う? 炎上待ったなしでしょ」
「でも、僕と深月さんは実の姉弟みたいなもので、やましいことは少しもなくて」
「アンタになくても、世間はそうは思わないって言ってんの。若い男女が同じ屋根の下で一緒に暮らしていて、何もないはずがないって思う奴らもいるってこと」
「本当に何もないんだけどな」
「今はなくても、魔がさすってこともありえるでしょ。アンタも男なんだから」
「『魔がさす』って、どういうことですか?」
「そんなこと、アイドルの口から言わせない」
衣知花さんが呆れたように小さく息を吐く。
「とにかく、アンタがここにいたら深月が危険だってこと。分かるでしょ、だいたい」
「僕、深月さんに危険な思いなんてさせません。むしろ、深月さんのことを守ります! 絶対に守り通してみせますから!」
僕は衣知花さんをまっすぐ見つめ、真剣な思いを切実に訴えた。
これからも深月さんを支え続け、守ってあげたい――その気持ちに嘘や偽りは少しもない。
すると、衣知花さんは頬づえをつき、フッと微苦笑を浮かべた。
「ふうん。深月がアンタを手放せない理由が分かった気がするわ」
「どういうことです?」
「なんでもない。こっちの話」
衣知花さんは軽くあしらうように言い、さらに続ける。
「いい? 深月のことを守りたいなら、なおのこと、さっさとこの家を出て行きなさい。炎上して辛い思いをするのは深月のほうなんだからね」
ぴしゃりと言い切られて、僕は思わず口をつぐんだ。
どうして僕たちはこんなにも引き裂かれようとしているのだろう?
僕と深月さんはただの仲の良い従姉弟同士で、これまでも互いを認め、尊重し合いながら清い関係を続けてきた。僕たちの絆は、幼い頃から積み重ねてきた尊い日々によって築かれたものだ。
それなのに、何も知らない人たちの勝手な憶測や邪推によって、今まさに僕たちの関係が壊されようとしている。こんなに理不尽なことって、ない。
僕が悔しい思いをしていると、衣知花さんにも思うところがあったのか、テーブルの上に置かれた僕の読みかけの本を見つけ、話を振ってくれた。
「へえ、ストレスフリーの本。アンタが読んでたの?」
「はい。昨日、図書室で借りてきたんです。少しでも深月さんの力になりたくて」
どういうこと? と衣知花さんの目がたずねている。僕は説明を続けた。
「深月さん、メンタルがあまり強くないんです。自分の悪口が書かれているかと思うと怖くてSNSも見られませんし、メンバーの皆さんの活躍を心から喜びながらも、自分だけが置いていかれているような気がして急に不安になったりして……。僕の目には、アイドルの深月さんはすごく輝いて見えるのに、当の本人はいつまで経っても自信が持てずにいるんです」
「そうね。深月らしいわ」
「だから僕、深月さんのことを励ましてあげたくて、どんな声をかけてあげたら自信を持ってもらえるのか、勉強していたんです。だって、深月さん、毎日すごく頑張っているから」
僕は深月さんの頑張りをずっと間近で見守ってきた。真面目で、頑張り屋で、時に凍えそうな心を必死に奮い立たせて、アイドルとして精一杯努力してきた。僕はそんな深月さんを尊敬しているし、心から応援してあげたいと願っている。
「あら、殊勝な心がけじゃない。で、何か分かったことはあったの?」
「深月さんは他人と比べすぎなんだと思うんです。それで勝手にコンプレックスを抱いて、苦しんで……。でも、深月さんは本当に素敵な人だから。周りのことは気にせず、これからも深月さんらしく、ありのままの姿で成長してきた自分に誇りを持ってもらえたらいいなって」
「なによそれ」
しかし、衣知花さんから返ってきたのは意外な言葉だった。
「アンタ、まさかそんなことを深月に吹きこんだじゃないでしょうね?」
「え?」
「周りのことは気にせず? ありのままの姿で? そんな甘い考えがまかり通るわけないじゃない」
「そんな……」
「たしかにアンタの言うことは正しいかもしれない。一般論としてはね。でも、私たちが生きているアイドルの世界ではそんな甘い考えは通用しない。人と比べられて当然。他人よりも高い評価を勝ち得て初めて生き残れるシビアな世界なの。だいたい、成長してきた自分を誇れったって、周囲から認めてもらえなければ、ただの自己満足じゃない」
「僕は、自己満足だって必要だと思います。特に、自分を否定しがちな深月さんには」
「アンタの言葉は深月には沁みるでしょうね。でも、そんな慰めの言葉なら私たちにはいらない。自分らしさを押し殺してでもキャラを演じてみせて、周りから求められる高いニーズに応えて、そうして他人を蹴落としてでも高い評価を勝ち取っていく。毎日が真剣勝負の世界――それが、私たちが生きるアイドルの世界よ」
衣知花さんがきっぱりと断言する。
力のこもった揺るぎない声の響きに、僕は衣知花さんのアイドルにかける思いの強さや覚悟を感じ取った。
「辛くはないんですか? そんなに自分を追いこんで」
「ええ、辛いわよ。とってもね。でも、やらなきゃ生き残れないんだからしょうがないじゃないッ!」
衣知花さんが激しい口調で言い放し、それから少し間を置くと、しんみりとした声で続けた。
「……それに、過去にはもっと辛いこともあったから」
降りしきる雨が、静かに窓を濡らしていく。衣知花さんは温かい紅茶の入ったマグカップを両手で包むように持ち、ふと窓の外に広がる暗い雨空に目をやった。
それから、ふたたび視線を戻し、紅茶をひと口飲むと、過去に起こった出来事をゆっくりと語りはじめた。
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