第9話

 あいにくの雨が降りしきる、肌寒く薄暗い朝。


「遅いな、深月さん。もうとっくに起きてきてもいい時間なんだけど」


 朝食の準備をしながら、壁にかけられた時計を見上げる。

 いつもなら、そろそろ深月さんが眠そうな目をこすりながら、ひょっこり顔をのぞかせてもおかしくないのに。


「やっぱり疲れているのかな」


 仕事に学業にレッスンにと忙しいのに、さらに先日からはジョギングまで始めて。朝に起きられなったって、何ら不思議じゃない。 

 僕はすっかり朝食をテーブルに並べ終えると、深月さんを部屋まで迎えに行った。


「深月さん、起きてる? 朝ごはん出来てるよ」


 ドアをノックして返事を待つ。けれども、深月さんの部屋はいつまでも静まり返っていて、物音ひとつ返ってこない。

 このままだと僕まで学校に遅刻してしまう。やむを得ず、ノブに手をかけドアを押し開いた。


「入るよ。……って、まだ寝てるし」


 よく整頓された深月さんの部屋を見やる。深月さんはいまだに布団をかぶり、ベッドに横になっていた。

 仕方なく、深月さんの身体を軽く揺すってみる。


「ほら、深月さん。起きて。もう朝だよ」

「……ぅん……万央くん……?」


 深月さんが重そうなまぶたをわずかに開き、下からまぶしそうに僕を見上げる。

白い肌はほのかに色づいて汗ばみ、小さな唇が拗ねているかのようにツンと上を向いている。


「おはよう、深月さん。早く起きないと間に合わなくなっちゃうよ」

「……今起きりゅ……」


 まだ眠いのか、消え入りそうな小声をもらす深月さん。


「……ハァ……ハァ……。万央くぅん……抱っこぉ……」

「まだ寝ぼけているの。早く起きて」


 僕はまるで幼い子供のように甘えてくる美人のお姉さんに呆れながら、深月さんの要望通り、細い身体を抱え起こしてあげようと腕を伸ばした。

 そして、すぐに異変に気がついた。

 深月さんの呼吸がいつもよりも荒く、全身が火照っている。ハッとして深月さんの額に手を当てると、燃えるように熱かった。


「たいへん! 深月さん、すごい熱!」

「……大丈夫……もう起きるね……」

「駄目だよ、寝てなくちゃ!」

「だって……レッスンに穴を開けたら……みんなに迷惑かけちゃう……。アイドルフェスだって近いのに……」

「今ここで無理をして本番のステージに立てなくなったら、メンバーにもファンにももっと迷惑がかかっちゃうよ。焦る気持ちは分かるけど、今日は安静にしていよう」

「……ヤダ……」

「わがまま言わないの」


 深月さんがしぶしぶ受け入れ、メンバーに連絡を入れる。そして、ふたたびベッドに横になると、両手で顔をおおって静かに泣きはじめた。

 深月さん、よほど悔しかったんだろうな。


 僕もまた学校に電話をかけ、今日の欠席を伝えた。

 深月さんの容体が心配だし、なにより僕が目を離したら、深月さんが何をし出すか分からない。たとえ高熱が出ていても無茶をしてしまうのが、真面目で頑張り屋な深月さんの怖いところだ。


 僕はしとしとと降る雨の音を聞きながら、昨日図書室で借りてきた本を静かに読んで過ごした。

 深月さんを精神的な疲れから少しでも解き放って、楽な気分にしてあげたい。その一心だった。

 そうして、ゆったりとした静かな午前を過ごしていると、ふいに家のベルが鳴った。


「誰だろう?」


 壁に備えつけられているモニターをのぞいてみる。


「えっ!? 衣知花いちかさん!?」


 なんと、モニターに映し出されていたのは、『A―DRESS』のリーダー、一条衣知花さんだった。


 マンションのエントランスに立ち、苛立たしそうに腕を組み、自動ドアが開くのを今か今かと待ち構えている。


「あわわっ、どうしよう?」


 慌てて通話ボタンを押すと、モニター越しの衣知花さんが腰に手を当て、ムッとした表情でカメラに迫って来た。


『ちょっと深月、いるんでしょう? さっさとここを開けなさい。お見舞いに来てあげたわよ』


 ガーリーな衣装に身を包んだ可愛らしい見た目に反して、圧が強い。

 衣知花さんとは直接面識はないけれど、彼女の厳しさや気の強さは、深月さんとの日頃の会話から十二分に伝わっていた。


 エントランスの自動ドアを開けると、まもなく衣知花さんが家の前までやって来た。僕はすっかり観念し、彼女を出迎えた。


「ったく、急に倒れたって聞いたからびっくりしたじゃない。ま、深月らしいっちゃ、らしいけど」

「初めまして。いらっしゃい、衣知花さん」

「――は? 男?」


 たちまち衣知花さんの眉がつり上がる。それから、わなわなと肩を震わせ表情を怒らせたかと思うと、いきなり乱暴に僕の胸ぐらをつかんできた。

 僕の身体を玄関に押しこみ、バタンッ! と勢いよく扉を閉める衣知花さん。そして、今にも噛みつきそうな狂犬さながらに僕に迫り、吠えたてた。


「誰よアンタッ! どうして深月の家に男がいるわけ! まさか彼氏とか言うんじゃないでしょうねッ!」

「ち、ちがいますっ。僕は深月さんの従弟で」

「従弟ォ?」


 衣知花さんがぎゅっと掴んでいた僕の胸ぐらをようやく手放す。

 そして、鋭い目でじろじろと僕を眺め回し、ようやく疑いが晴れると、肩をすくめて言った。


「ほら、突っ立ってないでさっさと中に入れなさいよ。それと、はい、これ」


 衣知花さんが手にした紙袋を突き出してきた。のぞいてみると、スポーツ飲料やゼリー、おでこに貼る冷却シートや風邪薬などが詰めこまれていた。

 衣知花さんが先陣を切って廊下を進み、深月さんの部屋のドアをノックする。


「深月、入るわよ」


 ひと言断ってから、返事を待たずにドアを開く。


「……え? 衣知花ちゃん……?」


 深月さんもまさか衣知花さんが家を訪れるとは思わなかったのだろう。目を丸くし、力の入らない腕でよろよろと上半身を起こす。


「いいから、アンタは寝てなさい」


 衣知花さんがすかさず深月さんの身体を寝かしつけ、そのままベッド付近に腰を下ろす。


「まったく、最近深月の調子がずっといいんで怪しいとは思っていたけど、まさか男がいたとはね。で、コイツとはどこまでしたわけ? 正直に白状なさい」

「ち、ちがうの衣知花ちゃん。万央くんはそういうんじゃなくて、ただの従弟で」

「ただの従弟と一緒に住むわけないでしょ」

「万央くん、都内の学校に通うために上京してて……それで一緒に……。双方の親の了承も得ているから……」

「呆っれた、親公認なわけ? 従弟でも駄目なものは駄目でしょ。アイドルとしての自覚を持ちなさい」


 衣知花さんが悩ましげにため息をつく。

 そして深月さんの髪を優しく撫でながら、遠い目をして懐かしそうに過去を語りはじめた。


「深月と初めて出会ったのは、たしか十五の頃だったわね。アンタ、その頃よく言っていたわよね。『振り向かせたい子がいるからアイドルになった』って。まさかコイツじゃないでしょうね?」

「衣知花ちゃんっ!?」

「見たところ高校生のようだけど、なかなか可愛い子じゃない。いかにも深月が好きそうな」

「ち、ちがうからっ。万央くんは私にとって実の弟のような存在で……」

「そういや昔、面白い漫画があるからって私に貸してくれたことがあったわね。たしかタイトルは『転生したら弟と結ばれた件』、略して『転結てんむす』だっけ?」

「ごほっ、ごほっ!」

「それに、ついこの間私が心配して『最近はよく眠れるの?』って聞いたら、『いい抱き枕が手に入ったから大丈夫』って言ってたけど、それ、どこにあるのよ? もしコイツのことだったらぶっ飛ばすわよ」

「……衣知花ちゃん……お願い、もう帰って……っ」


 深月さんは真っ赤な顔からもうもうと白い湯気をふき出して、ぐったりしている。もしかして、また熱が上がってきちゃったのかな?

 一方、衣知花さんも疲れ果てたように深月さんのベッドに顔を伏せ、うめくようにつぶやいた。


「ああ、もう最悪よ。結成から二年。ようやく知名度が上がってきて、いよいよこれからって時に、よりによって清楚系で売り出している深月に男がいたなんて。悪夢だわ……」


 どうやら衣知花さんは大きな誤解をしているらしい。

 たまらず、僕は衣知花さんの細い背中に声をかけた。


「あの、なにか誤解されているみたいですけど、僕たちは本当にそんなんじゃなくて。家族みたいなものなんです」

「アンタはぼーっとしてないで、さっさと荷物をまとめてこの家を出るッ!」

「ええっ!?」


 すごい剣幕で吠え返されて、僕は言葉を失った。

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