第8話

 太陽が昇り、都会のビル群が明るい光を浴びてその輪郭をくっきりと浮かび上がらせる早朝。

 僕が朝食の準備に取りかかっていると、深月さんがリビングに姿を現した。しかも、しっかりとスポーツウェアを着こんでいる。


「あれ、もう起きたの? いつもならまだ寝ている時間なのに。それに、その格好は?」

「うん、今日からジョギングでもしようかなって。アイドルフェスに向けてもっと体力つけなきゃだし、ダイエットにもなるから」

「そんなこと、急に始めて大丈夫? 怪我でもしたら大変だよ」

「大丈夫だよ。万央くんはあいかわらず心配性だなあ」

「今日も大学に行くんでしょう? 朝くらい、ゆっくり休んでいれば? それに収録だって」

「そうだね。朝はジョギング、午前中は大学で講義、午後には収録があって、夕方からはダンスレッスン。我ながら充実してるよね」

「息つく暇もないじゃない」

「でも、忙しくしていたほうが、かえって余計なことを考えなくていいから楽かな。私、一人の時間があるとあれこれ考え過ぎちゃって、憂鬱になったりするから。じゃ、行ってくるね」


 深月さんは笑顔で軽く手を振り、マンションを飛び出していく。


「深月さん、オーバーワークにならなきゃいいけど」


 僕は深月さんの細い背中を見送りながら、不安を募らせた。

 真面目で頑張り屋な深月さんのことだもの。つい歯止めが効かなくなって、やり過ぎてしまいそうで怖くなる。


 何はともあれ、深月さんはこんなにも毎日懸命にアイドル活動と学業との両立に励んでいる。僕だって深月さんに負けていられない。

 僕も行動を起こさなくちゃ。



  〇 



 高校の昼休み。

 食堂へと駆けていく男子生徒や、廊下で立ち話に花を咲かせる女子生徒を避けながら、僕は目的の場所へと向かう。


 深月さんには深月さんの使命があるように、僕には僕の使命がある。

 深月さんがアイドルとしての輝きを求められているのと同様に、僕には深月さんを支えるという役割が求められている。

 だから、その求めに応え使命を果たすためにも、僕も行動を起こさなくちゃいけない。

 やがて僕は目指していた場所にたどり着いた。そこは一階にある図書室だった。


「ええと、どこだろう?」


 規則正しく並べられた本棚の間をぬって本を探す。図書室なんてめったに来ないから、どこに何があるのかまるで見当がつかない。

 そうして冒険家さながらに本棚の林をさまよい歩き本を探し続けること数分。僕はようやく宝物のありかに行きついた。


「あった! ここだ」


 僕が足を止めた場所、それは主に『心理学』について書かれた本がまとめられたコーナーだった。

 『メンタル』に関する書籍はもちろん、『適応障害』や『繊細さん』、『自己肯定感』など、気になるワードがいくつも並び、どれも思わず手に取りたくなってしまう。

 その中で、僕は『ストレス』について述べられた一冊の本を手に取り、開いてみた。



――『大切なのは、他人と比べないことです』



 さっそく、深月さんに当てはまりそうな言葉が目に留まり、ハッとする。僕は食い入るように本の続きを読み進める。



――『比べるのは他人ではなく、あくまで過去の自分。過去の自分より今の自分が成長できていると感じられれば、きっと大丈夫。あなたはここまでよく頑張ってきましたね』


――『ありのままの自分を認め、受けれましょう。あなたは素晴らしい人です』



 励まされるような文章に、しぜんと胸が熱くなる。

 深月さんがなかなか自分に自信が持てずにいるのは、きっと他人と比較しているからなんだ。

 深月さんと一緒に映画を見に行った時、本人も言っていたじゃないか。『なんだか私だけ置いてけぼりにされている気持ち』だって。


 でも、深月さんの過去を知っている僕からしたら、深月さんだってこの数年でものすごく成長した。

 おさげに黒縁めがねをかけ、好きな本やアニメの話を熱っぽく僕に語って聞かせてくれた少女時代には想像もつかないくらい、深月さんは美しい女性へと変貌をとげた。

 深月さんがアイドルになって、スポットライトを浴びながら歌ったり踊ったりするだなんて、幼い頃の僕は夢にも思わなかった。


 一方で、深月さんはアイドルであるが故の悩みもたくさん抱えている。

 表向きは透明感のある清楚でクールなS級アイドルの深月さんが、その裏で精神をすり減らしているだなんて、いったい誰が想像するだろう? 


 だから、僕が深月さんを守るんだ。

 かつて幼い僕の手を引いて見守り続けてくれた僕の憧れのお姉さんに恩を返すなら今しかない。


「さっそく、家に帰ったらこの話をしてあげよう。深月さん、これで自信をつけてくれるかな」


 僕はそんな期待感に胸を膨らませながらカウンターへと進み、いかにも真面目そうなロングヘアーの図書委員の女子に数冊の本を差し出した。


「…………っ」


 彼女は本を受け取ると、けげんな顔で僕の表情をうかがい、それから貸し出しの手続きを済ませてくれた。


 なんだろう? 僕の顔に何かついていたのかな?



 〇



「はあー、今日もくたくたー」


 夜、お風呂から上がってきた深月さんが、リビングのソファーにぐったりとへたりこむ。

 僕は深月さんのそばに近づき、労いの声をかけた。


「深月さん、お疲れ様」

「万央くん、その本は?」


 深月さんが、さっそく僕が手にしていた本に着目する。


「ああ、これ? 今日、学校の図書室で借りてきたんだ。ストレスに関する本。少しでも深月さんの役に立てばいいなと思って」

「私のために?」

「試してみる?」


 僕はあらかじめ付箋をつけておいたページを開いた。


「深月さん、『セルフハグ』って聞いたことある? 自分の身体を自分で抱きしめるだけで、気持ちが落ち着いてくるんだって」

「こう?」


 僕の説明を聞いた深月さんが、ソファーから上半身を起こす。そして、スタイルの良い身体を自らの両腕でぎゅっと抱き包み、上目づかいでたずねてきた。


「――――ッ!?」


 たちまち、深月さんのダボッとしたTシャツの隙間から、寄せ上げられた豊かな胸の谷間がくっきりと見えてしまい、僕は慌てて目をそらした。


「ん? どうしたの、万央くん。そんなに顔を赤らめて」

「う、ううん、なんでもない。それより、実際にやってみてどうだった? 効果ありそう?」

「んー。それよりも私は」


 深月さんが悪戯っぽい目で笑う。かと思ったら、いきなり僕に抱きついてきた。


「セルフハグより、万央くんをハグしているほうが、気持ちが楽になるかな」

「もう、深月さんったら」

「えへへ」


 深月さんに好き勝手に抱きしめられ、頬がカッと熱くなるのを感じながら、僕は恥じらい交じりにため息をつく。


 けれども、一方で僕は手応えも感じていた。

 こうして自ら行動し、少しでも深月さんに役立ちそうな知識や情報を集めていけたら、きっと今よりもっと力になってあげられるよね。


 僕はそう信じて少しも疑わず、むしろ得意でさえいた。


 この後、予想だにしない波乱が僕を待ち受けているとも知らずに――。 


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