第7話
「キャーッ!」
静かな夜のひと時を切り裂くような、深月さんの悲鳴が突然家に響きわたる。
僕はびっくりしてソファーから飛び上がり、声がした洗面所のほうへと駆け出した。
「どうしたの、深月さん!?」
血相を変えて、洗面所のドアを勢いよく押し開く。
すると、僕の目に、お風呂上がりの深月さんが裸にバスタオルのみを巻き、体重計に乗ったまま固まっている姿が飛びこんできた。
「えっ? きゃっ!」
深月さんがいきなり姿を現した僕にとまどい、短い声を上げる。
と同時に、深月さんの滑らかな裸体を包みこんでいたバスタオルが、はらりと落ちた。
生まれたままの姿で固まる深月さん。
「キャアァ――ッ!!」
深月さんがいっそう悲鳴を上げたのは、言うまでもない。
〇
「まったくもう。どうして急にドアを開けるかな」
いつもの下ツインテールに、ダボッとしたTシャツ、ショートパンツ姿の深月さんが、ソファーに座る僕の横に腰を下ろし、不満げに僕につめ寄ってきた。
「だって、悲鳴が聞こえたから何事かと思って」
「私のことを心配してくれるのは嬉しいけど、ノックくらいはしてほしかったかな」
「緊急事態だもの、そんなに落ち着いてはいられないよ。それに、入ってほしくないなら鍵をかけておいてくれればよかたのに」
「私はいいの。万央くんが気をつけてくれればいい話だからね」
「調子いいなあ」
すると、深月さんが腕を組んで胸元あたりを隠すようにしながら、顔を真っ赤に染め上げて、上目づかいでチラチラと僕の反応をうかがうようにたずねてきた。
「で……どうだった?」
「どうって、何が?」
「見たんでしょう、私の裸。その、万央くんから見て、どうだったのかなって」
「ど、どうったって。一瞬の出来事で、ほとんど見えなかったよ」
「でも、一瞬は見たんでしょう? ねえ、どうだった? 万央くんが思わず抱きしめたくなるような身体してた?」
「そんなの分からないよっ」
つい先ほど目にした光景を思い出し、顔がカッ! と熱くなる。
生まれたままの深月さんはやっぱりスタイルが良く、神々しいまでに美しくて。ひとたび網膜に焼き付いてしまった強烈な映像は、そう簡単に消えそうにない。
「万央くんのえっち」
「悪気はなかったんだ」
深月さんが恨めしそうに目をつり上げる。僕はたまりかねて話題をそらした。
「ところで、深月さんはどうして悲鳴を? いったい何があったの?」
「うん、実はね……」
深月さんが切なげに瞳を揺らし、思いつめた表情でそっとうつむく。
それから、今にも泣き出しそうな顔で、ついに事情を打ち明けた。
「体重が増えていたのっ!」
たちまち、緊張感がゆるやかに解けていく。代わりに安心感がこみ上げてきて、僕はホッと安堵の息を吐いた。
「なんだ、そんなことか」
「『そんなこと』って何? すごく一大事なんだよ? 万央くんには分からないかもしれないけど」
深月さんが苦悶の表情を浮かべながら頭を抱える。
「ああ、また衣知花ちゃんに怒られる……。『体型維持すらできないなんてアイドル失格よ!』とか言われちゃう……。それに、きっとSNSにも『太った』とか『ブス』とか書きこまれて、みんなの笑い者にされるんだわ……」
頭の中でネガティブな被害妄想を豊かに広げて、一人で絶望のどん底へと沈んでいく深月さん。
ついには虚無の顔でゆらりと立ち上がり、ハイライトの消えた暗い瞳でぼそっと声をもらした。
「……万央くん。私、これから旅に出かけてくる。お願いだから、私のことは探さないでね」
「いったん落ち着こうか」
僕は深月さんの腕を引き、強引にソファーに座らせる。
「いい? 深月さんは誰が見たって綺麗だよ。もっと自分に自信を持って。それに、僕の目にはちっとも太ったようには見えないよ」
「本当に?」
「うん。普段から細すぎるくらいだもの。少しくらい太ったほうが健康的でいいと思うよ」
「それは万央くんの主観でしょう? そうはいかないよ。私の周り、綺麗でスタイルのいい人ばっかりだもん。私ももっと努力しなくちゃ」
「深月さんはいつも努力しているじゃない」
「でも、私は自分に甘いから。もっとストイックにならなくちゃ駄目だって自分でも分かっているんだ。太ったのだって、自己管理ができていない証拠だし」
「そんな。食事には普段から気をつかっているはずじゃない」
「万央くんにも協力してもらっているのにね。だから、悪いのはこの私。ああ、きっと夜中にゲームしながらポテチまるごと一袋食べたのがいけないんだわ……」
深月さんが自ら罪を告白し、両手で顔をおおってうなだれる。
「深月さん、僕の知らないところでそんなことしてたの?」
「だって、仕方ないじゃない。仕事をしているとね、精神的におかしくなりそうな時もあるんだよ。そんな夜に現実を逃れてゲームの世界にのめりこんで、何の憂いもなく寝落ちして、気づいたらまばゆい朝日に包まれているこの幸福感……。万央くんに分かる?」
「そんな真剣な目で力説されても」
深月さんが目にうっすら涙を浮かべながら切実に訴える。深月さんが抱えている心の闇が透けて見えてしまう。
僕はとなりに座る深月さんをじっと見つめ、声を返した。
「ごめんね。僕がいながら辛い思いをさせてしまって。僕にできることがあったら何でも言ってね。僕でよければ力になるから」
「万央くん……」
深月さんの美しい瞳から、ひと筋の涙がこぼれ落ちる。
深月さんは慌てて指の背で涙をぬぐうと、僕に微笑みかけた。
「今『何でも』って言ったよね? 悪いんだけど、もう一回言ってもらってもいい? 証拠として残しておくから」
深月さんがスマホを手に取り、指先でそそくさと操作を始める。どうやら動画を撮ろうと企んでいるらしい。自分が一度口にしたセリフとはいえ、そこまでされるとさすがに二度目は言いづらい。
「とにかく、深月さんは僕に何かしてほしいこと、ある? ああ言った手前、僕も少しは役に立ちたいなって」
「ううん。万央くんにはもう十分してもらっているよ」
「え?」
とまどう僕に、深月さんは柔らかい笑みをたたえて語りかける。
「万央くんがいなかったら、私、とっくに駄目になっていた。……万央くんがこの家に来る前はね、一人の夜がずっと怖かった。考えなくていいことまで勝手に頭に浮かんできて、とことん思いつめて、胸が押しつぶされそうになって、息をするのさえ苦しくて……」
深月さんの切なげな声が湿り気を増していく。
――『ねえ、万央くん。お願いがあるの。……私と一緒に住んでくれないかな……』
かつて受話器越しに聞いた深月さんの声が、僕の耳によみがえる。あの時の深月さんの声も涙で震えていたっけ。
「でもね、今はこうして万央くんが私に寄り添ってくれる。話をたくさん聞いてくれて、励ましてくれて、こんなにも私を支えてくれている」
深月さんが僕の身体にそっと身を寄せ、胸の辺りに顔をうずめる。深月さんがきゅっと握った僕の服がしわとなるほど、細い手には力がこめられていた。
「こうして万央くんの温もりを身近に感じられることが、私にとってどれほど心強いことか。万央くんには感謝してもしきれないよ」
やがて深月さんは顔を上げ、涙でうるんだ瞳をまっすぐ僕に向け、祈るように告げた。
「だから、お願い――これからも、ずっと私のそばにいて。私が望んでいるのは、ただそれだけよ」
「深月さん……」
二人だけの静かな夜が、しだいに更けていく。
深月さんはこんな僕を必要としてくれる。繊細で今にも折れそうな心を懸命に奮い立たせながら、ここにいてさえくれればいいと僕に優しく言ってくれる。
けれども、それでは僕の気が済まないから。
これから僕にできることを探していこう。
僕は密かにそう誓いを立てるのだった。
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