第3話
夜、リビングのソファーに座り、スマホを眺めていると、
「ただいまー」
ようやく深月さんが帰って来た。
「はぁー。今日は午前中に大学で講義を受けて、その後収録があって、さらに夕方からはスタジオでダンスレッスンだったから、もうくたくたぁ」
「先にお風呂に入ってくれば? 夕飯の支度は僕がしておくから」
「いいの? お言葉に甘えちゃっても」
「いいよ。そのために僕がいるんだから」
「万央くん……っ」
深月さんが今にも泣き出しそうに瞳をうるませ、荷物を放って崩れるように僕のとなりに座りこむ。
かと思ったら、両手を広げて僕にむぎゅっ! と抱きついて来た。
「わっ!? どうしたの、深月さん?」
「あのね……
『A―DRESS』のリーダー、一条衣知花さん。亜麻色に輝く髪に、際立つ小顔、そして挑むようなぱっちりとした目が特徴的な美人さんだ。
まだ十九歳で深月さんより年下なのにリーダーを任されるくらいだから、よほど気が強いしっかり者なのだろう。
「そう。頑張ったね、深月さん。えらいえらい」
僕の身体に抱きついたまま、顔をうずめてしくしく泣きだす深月さん。そんな彼女をなだめる僕。もうどっちが年上なのか分からない。
「こんなに頑張っているんだもの。この先絶対にいいことがあるよ」
「それっていつ? 何年何月何日何時何分にいいことある?」
「うーん、そう言われると。明日とか?」
「本当? 明日、いいことある?」
「きっとあるよ。だから、今夜は安心してはゆっくり休もう」
僕は遠慮がちに、深月さんの頭をそっと撫でてやる。滑からな深月さんの髪に触れると心臓がドキドキと鼓動を速め、撫でた手のひらがたちまち熱をもってくる。
深月さんもまた涙にぬれた目を大きく見開き、頬を紅潮させ、満たされたようにニコッと笑う。
そして、ようやく僕から身体を離し、指の背で涙をぬぐった。
「ご、ごめんね。私、先にお風呂に入ってくるっ」
深月さんはそう言い残し、逃げるように洗面所へと去っていった。
「深月さん、だいぶ参ってるな」
リビングに残された僕は、ひとりつぶやく。
来月には他のアイドルたちとの合同フェスが控えている。そのため、レッスンも過酷を極めているようだ。
「深月さんのメンタルがもう少し強いといいのだけど」
キッチンに立ち、夕飯の支度をしながら、ふとそんなことを考える。
繊細で傷つきやすくて、よく泣いて。深月さんのそういう脆い一面は、アイドルになって以降、ますます際立ってきたような気がする。深月さんにとって、アイドルという仕事は、それほどまでに精神的にきつい物なのかもしれない。
「とにかく、僕が励ましてあげなくちゃ」
ただの高校生に過ぎない、こんな僕に何ができるのかは分からない。
でも、深月さんが精神的に辛い思いをしているのなら、それ以上に僕が深月さんを明るい気持ちにしてあげたい。
そう願うのは、僕の勝手なエゴだろうか?
〇
遅めの夕食を二人で一緒に食べはじめる。
「ごめんね、万央くん、待たせちゃって。先に一人で食べていてくれていいのに」
「ううん、僕も深月さんと一緒に食べたほうが楽しいから。二人だと美味しいね、深月さん」
「万央くん……」
深月さんがまたうるっと瞳をにじませる。今日は何を言ってもこんな感じらしい。
それより、お風呂上がりの深月さんはなんとなく色っぽくて、いい匂いがして、僕はドギマギしてしまう。
それに、大きなTシャツの襟口から大きな胸の谷間がちらっと見えたりすると、思わず顔を背けたくなってしまう。本人がリラックスしているのは良いことなのだけど、ちょっと無防備すぎて困る。
「ん? 万央くん、どうかした?」
「う、ううん、なんでもない」
深月さんが下ツインテールを揺らし、きょとんとした顔で首をかしげる。
僕はたまらず視線をそらし、それとなく話題を変えた。
「それより、深月さんのお酒のCM、評判がいいみたいだよ」
「そうなの?」
「うん。SNSでさっそく話題になっているよ。『可愛い』とか『大人っぽい』とか『好き』とか」
「本当に? 『あざとい』とか『キモイ』とか『調子に乗るな』とか『男に媚び売るな』とか書かれてなかった?」
深月さんが疑り深い目でたずねてくる。
あいかわらず自己評価が低くて、僕は苦笑するしかない。
「そんなこと書かれるわけないよ。でも、どうしてそう思うの?」
「だって、私のことが嫌いって人も、世の中には絶対いるもん……」
深月さんがネガティブを発動して、しゅんとうつむく。
「深月さんのことが嫌いなんて人、どこを探したっていないよ」
「世の中、そんなに甘くないよ。私に悪意を向けてくる人だってたくさんいるもん。だから私、SNSはなるべく見ないようにしているんだ」
「実際に見てもらえば、深月さんに好意的な意見がほとんどだって分かってもらえると思うけどな」
「『ほとんど』であって『全て』ではないでしょう? 私、どうしても駄目なの……。自分に否定的な意見があると、ずっとそのことばかり考えちゃう。たとえ百人中九十九人が私のことを『好き』って言ってくれたとしても、たった一人でも『嫌い』って言う人がいたら、その一人のことばかり気になって、胸がぎゅう~、って苦しくなる……」
深月さんが胸の辺りを抑えながら、苦しそうな顔で本音を打ち明ける。
僕には深月さんの気持ちが分かる気がした。誰だって敵意を向けられたら、どんなに好意的な意見に溢れかえっていたとしても、気になるのは当然だろう。
「一生懸命頑張って生きている人のことを、どうして悪く言えるんだろうね? 人の苦労も知らないで……平気で人を傷つけて……」
「じゃあさ、こう考えてみてよ。今、この部屋には僕と深月さんしかいない。そして、僕は深月さんのことを、すごく素敵だなって思っている。ね、ここには百パーセント好意的な意見しかないでしょう?」
「それは、この世に私と万央くんの二人しかいない世界線の話じゃない」
「今は僕と深月さんの二人しかいないよ」
「万央くんはいつも優しいね。でも、万央くんにだって、私の嫌いな所くらいあるでしょう? 直してほしい所とか」
「うーん。特にないけど」
「私、そんなに完璧な人間じゃないよ。メンタルだって弱いし、いつも万央くんに迷惑かけてばかりで」
「たしかに深月さんはメンタルが弱いほうかもしれないけど。でも、だからといってそれが深月さんの魅力を損なう要因になるとは僕は思わないし、もちろん、迷惑にも感じていない。むしろ深月さんのお役に立てて、僕は嬉しいよ」
僕は深月さんに優しく微笑みかける。
すると、深月さんは頬をほの赤くして、うかがうような上目づかいで僕にたずねてきた。
「……ねえ、万央くん」
「なに?」
「万央くんはさ……私のこと、好き?」
「それはまあ、好きか嫌いかって言われたら、好きだけど」
「どのくらい好き?」
「どのくらいって言われても。ただ、深月さんのことは、ただの従姉じゃなくて、実の姉のようには思っているよ」
僕は幼い頃から深月さんによく面倒を見てもらっていた。だから、僕が深月さんに対して家族的な親愛の情を抱くのもしぜんの成り行きだった。
「実の姉かぁ」
深月さんが、独り言のように僕の言葉をくり返す。やや不満なのか、頬が小さく膨らんでいた。
「あのさ。悪いんだけど、万央くんのこと、試させてもらってもいい?」
「僕を試す? どうやって?」
「ちょうど万央くんに見てもらいたいものがあるの」
深月さんはそう言うと、僕に一冊の写真集を手渡してきた。
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