第2話

 翌朝。キッチンに立って、朝食の目玉焼きを焼いていると、


「うぅ……頭がズキズキする……」


 まもなく深月さんが起きてきた。

 下ツインテールに黒縁めがね。ダボッとした大きめのTシャツ。ショートパンツからは、すらりと細い深月さんの美脚が伸びている。深月さんの定番の部屋着姿だ。


「おはよう、深月さん。もしかして二日酔い?」

「うーん、二日酔いなのかな? 初めてだからよく分からないや」


 深月さんが眉根を寄せて苦笑する。無理して浮かべた作り笑いがかえって痛々しい。


「私、昨夜の記憶が途中からなくて……。私、どうやってベッドまで行ったんだっけ?」

「ちゃんと自分で歩いて部屋に戻って行ったよ」


 本当は僕が運んであげたんだけど、余計なことは言わないでおく。


「そう、ならいいの。それより万央くん。私、昨日変な顔してなかった?」

「深月さんはどんな顔をしていたって素敵だよ。自信持って」


 僕が微笑みかけると、深月さんは目を見開き、それからもじもじと視線をそらした。


「も、もう……。万央くんは口が上手すぎ。まだ高校生になったばかりなのに、そういうの、どこで覚えてくるの?」

「本音なんだけどなあ」

「そういうこと、クラスの女の子に簡単に言っちゃ駄目だよ。みんな勘違いしちゃうよ」

「こんなこと、深月さんにしか言わないよ」

「そ、それならいいんだけど……っ」


 僕の元から逃れるように、そそくさと朝食を運んでいく深月さん。何をそんなに焦っているんだろう? 心なしか、深月さんの耳がほのかに赤く色づいているような……。


「いただきます」


 僕たちはダイニングテーブルに朝食を並べ、一緒に食べはじめた。

 トーストにサラダ、目玉焼き、ヨーグルト、ホットコーヒー。なんの変哲もない、ありふれた朝食だ。


「美味しい。いつもありがとうね、万央くん」


 全然たいした物じゃないのに、深月さんはにこやかに、心からの感謝の言葉を告げてくれる。


「どういたしまして」


 僕もつられて笑顔になる。早く料理のレパートリーを増やして、いつも頑張っている深月さんにもっと尽くしてあげたくなる。


 それにしても……。


 メディアに登場してはキラキラと光の粒子をふりまいている、清楚でクールなS級アイドルの深月さんと。

 今目の前でこうしてトーストの端を小さな口でくわえている、あまりに無防備でどこか陰キャ的でさえある深月さん。


 同じ人物でありながら明と暗とが正反対で、あまりのギャップの大きさに、どちらが本来の深月さんなのか分からなくなってしまう。


「ん? どうしたの、万央くん。私のことをじっと見つめて」

「あ、ごめん。僕、そんなに見てた?」

「見てたよ、すっごく真剣な顔で。ははあ、さてはお姉ちゃんがあまりに魅力的なんで、目が離せなくなっちゃったのかな?」


 深月さんは年上の余裕を見せ、からかうような口調で僕に微笑みかける。


「うん。わりとその通りかも」

「なっ!?」


 深月さんの白い頬に、たちまち朱が走る。


「や、やだなぁ万央くん。そこは否定するところでしょ。なんでやねーん、って」

「だって否定できないもの。深月さん、本当に綺麗になったよね。僕が知っている深月さんは、おさげで黒いセーラー服を着て、いつも大事そうに本を抱えている、大人しい女の子だった。それが今じゃ、誰もがふり返る、憧れのアイドルだもの。女の人は年を重ねるごとに綺麗になるって聞いたことがあるけれど、深月さんの場合は特別だね」

「そ、そんなことないよ。こんな根暗なオタクが調子に乗ってアイドルになんかなっちゃって、かえってすいませんって感じだよ」


 深月さんが頬を赤らめながら、フッと暗く笑う。どうやら深月さんの闇は深いらしい。


「僕は必然だと思うよ、深月さんがアイドルになったのは。だって、すごく美人だし、スタイルもいいし、笑うと可愛いし、髪もきれいで艶やかだし、肌だってまっさらな雪の玉みたいに白くて透明感があるし。なにより音が真面目で毎日努力を怠らないし、歌やダンスだって……」

「ストーップ!」


 深月さんが真っ赤に染まった顔を両手でパタパタ仰ぎながら、焦ったように僕を制す。


「もう、私のこと褒めすぎだよ。それに、万央くんだって変わったよ」

「僕も?」

「うん。私が東京に出てきて会わなくなったほんの二、三年の間に、万央くんはすごく変わった。背だってあっという間に大きくなって私を追い越しちゃったし、何よりかっこよくなった。これ以上かっこよくなったらどうしよう……って心配になるくらいだよ」

「そうかな? 僕よりかっこいい人なんてたくさんいると思うけど」

「――ううん、いないよ」

「え?」

「万央くんよりかっこいい人なんて、世界中どこを探したっていないから」


 少しも揺るがない、確信めいた強い響きだった。


「深月さん?」


 黒縁めがねをかけた深月さんが、上目づかいで僕に視線を注ぎこみ、きゅっと唇を固く結ぶ。その表情は真剣そのもので、どこか必死でさえあった。

 深月さんがハッと我に返り、ごまかすように笑う。


「ご、ごめんね、急に変なこと言って。でも、万央くんがかっこいいっていうのは本当だから」

「あ、ありがとう」

「それより、そろそろ急がなきゃだね。このペースだとお互い学校に遅刻しちゃうよ」

「え、もうそんな時間?」


 それから僕たちは黙々と朝食を食べ進め、すっかり平らげると、僕は高校へ、深月さんは大学へと出かけて行った。


 朝の電車に揺られながら、僕は深月さんに同居を勧められた、寒い夜の光景を思い出していた。



――『ねえ、万央くん。お願いがあるの。……私と一緒に住んでくれないかな……』



 受話器の向こうで深月さんの声が震えている。



――『深月さん、もしかして泣いているの?』


――『う、ううん……っ。泣いてなんかいないよ……。それより、いいでしょう? おじさんとおばさんには、私から伝えておくから。一生のお願いよ……』



 僕に救いを求めるようなあまりに深刻な声の響きに、あの時の僕は首肯せずにはいられなかった。

『情緒不安定』って、きっとあの時の深月さんみたいな状態を言うのだろう。


 深月さんの身にいったい何があったのかは分からない。

 僕が知っている思い出の中の深月さんは、結ったおさげを揺らしながら、大好きな本やアニメの話を嬉しそうに語って聞かせる、笑顔の絶えない女の子だった。

 だから、もし今の深月さんがそうでないのなら、僕が支えてあげなくちゃいけないって思ったんだ。

 だって、深月さんは、地元ではいつも幼い僕の手を引いて前を歩いてくれていた、家族同然の憧れのお姉さんなのだから。



 こうして、僕は高校進学を機に上京して、深月さんが住む部屋で同居生活をスタートさせたのだった。

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