第8話

ハティーはシェルター内の中心部、ホールに座って、目を閉じていた。洪水が地を掻っ攫ってから半日が経とうとしている。その半日で、自分はできる限りのこと、交わした約束の全てを果たせたと、そう思っている。おもむろに日記帳とペンを取り出した。

彼女は椅子同士を隣り合わせてから仰向けに寝ると、そのまま文字を書く。


"洪水が起きた。そしてその日を0日としよう。今までのこと全てを忘れ、一転する時だから。"


ノートにつらつらと並べ、それが探偵としてのハティー・マーニか、1人の人間としてのハティー・マーニか、彼女は曖昧にしていた。つまり、彼女はこの日記帳を人間として書く気もあるということだ。現役時代、そんな癖はない。そればかりか、彼女は書類に対しては一切の感情を払拭し、鉄鉄とした文章ばかりを生み出していたから、今、あの2人の目の前では余裕そうに振る舞っていたそのペルソナが剥がれているのだ。


"洪水によっておそらく地上文明の一切が無くなった。これから先、人間という定義すらも変わるだろう。私達も最後にはluloのように、何者にも理解されずに飾られる……いや、飾られるだけマシ。痕跡を含めて消え去るかも知れない。

情報屋として、luloのような洪水の記録を残すつもりではいるが、自分にできるか怪しい。慣用表現ばっか盛り込みそうで、後世に伝えるにあまりにも難しいものとなるし、それに関してはより簡単な文章を描けるアラーニェの弟子の方が向いているだろう。"


書いてから、自分のネガティブさに彼女は驚いた。思えば、あの選択は間違いだったかも知れない。洪水でなくとも、ジジイの遺したものを自分から受け取らなかった選択は。

腕が疲れたので、腹の上に手を置いた。ハティーはこれまでの鬱憤を込めて、大きく溜息をついた。


「介入説、代替説、ノウアスフィアの崩壊、特定地域説は……偽であると証明された。疫病説と終末思想説も同時に否定できる。前二つは証明のしようがないし、ノウアスフィアの崩壊という面に関しては今考えることには価値があると思う。ただ、疲れた」


ハティーは無意識的に祈るための手の組み方を直して、頭の下に置いた。ぼーっとしている。それだけとなった。




ハティー・マーニの使命というのは自分の祖先を見つけること、ただそれだけだった。それは文書状の存在でも、誰かの取り留めのない記憶でもいい。ただ単なる手がかりでも、それだけで彼女は満足できた。周りから見れば復讐の鬼、自らを省みれば唯の執着の一種。彼女の周りに人が寄り付かないのはそれが理由だった。

探偵という職業を始めたのも、最初から自らの目的を果たすためだけであり、人助けだとか、事件解決とか、そういうのは毛ほども興味がなかった。必要だったのは詮索しても怪しまれない身分。

しかし探偵という仕事柄、同職の者とつるむ機会はあるわけで、そこで出会ったのがもう1人の変人、アラーニェだった。


"アラーニェという探偵に出会った。どうやら、私達は共同で事件を解決するらしい。"


バディを組まなければならないという規則には流石に逆らえなく、新米の探偵達はウルズ探偵事務所に入った。この2人の探偵事務所での対面といえば、酷いものだった。その場面を見た者は誰しもがそう言う。


「全く……協力の意思すらも見せないなんてまるで馬鹿みたいじゃないか。『郷に入れば郷に従え』ハティー・マーニ、探偵となったのは君の意思だろ」

「幾度と無く言ったことをまだ言わせるなんてお前は相当頭が小さいみたいだな。僕は探偵となったが、探偵ごっこをするつもりはない。僕が前から追っていた事件ただそれを解決するために来たと」

「では何故!」


アラーニェはそこまで言って、口をつぐんだ。彼自身、彼女とのパートナーを解消することはウルズさんに言えば納得してくれるだろうと思った。だが、彼の良心か、そうする事はなかった。

彼彼女は独立するまで共に活動していた。それなりに仲は良くなっていたし、プライベートで出会うことも増えていく。初対面の時の印象はもうどこへ行ったのか知らないが、2人は変人同士、気が合ったと言うことで周りもそう思っていた。


"奴は私の目的を否定しないが、探偵なりの仕事はしろと言う。至極真っ当な意見だ。それに、除名されれば2度とこんな機会が訪れる事はない。"


彼女の誕生日は曖昧だった。都度、自分が年老いたと思った時が誕生日。彼女がデスクで溢した「今年も老いたなぁ」という言葉をアラーニェは待っていて、机の中から予め買っていたペンとノートを急いで持ち出した。


「何?これ」

「君はいつもノートを使わずにボイレコばかり使っているだろう?一度紙に書いて状況を整理するというのも良い手段だ」

「……あぁ、なるほど。つまり私の誕生日だからって良さげな御託並べて受け取って欲しかったんでしょ」


アラーニェは口をつぐんだ。不都合なことがあればもう何も言わない彼をハティーはまた笑う。

彼女らは数年後、ウルズ探偵事務所から一度独立することに決めた。

地価の安い場所を選び、貸事務所に荷物を引き入れたその日の夜。机に突っ伏して寝ているハティーにアラーニェは毛布を被せた。そして2人がずっと使っていた部屋を見渡す。ここから新たに旅が始まる。しかし気は休んでいる。1人じゃ無いからだ。

アラーニェは机に乗っている小包を見つけた。何かのサプライズかとそれを慎重に開ける。中に入っていたのはベル、呼び鈴だった。


「いいでしょ。その呼び鈴」

「……起きてたのか」

「もちろん。おまえの驚き顔を見たくてね。まさか涙ぐむまでとは思ってなかったけど……」


ハティーはそれを二つ買っていた。ここで使う用と、ウルズさんに出来れば送りたいと思っていたからその為に。

2人の努力の末にアラーニェ探偵事務所として完成したのはやはり、全ての準備が整った後に呼び鈴をカウンターに置いた時だった。




ホールには星空が投影されていたので、ハティーは表紙に留めたペンとノートを掲げる。昔を思い出すにはこの品達はぴったりだ。

ハティーは誰かから忘れられるのを恐れていたが、以前までは他人を憶え留めておくことは無駄だと思って、省いていた。ただ、今は違う。無くしてから、その重要さに気付くものだ。


「良かったな、アラーニェ。私は……」


ハティーは口をつぐんだ。

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