第7話
部屋に2人は入り、ドアに鍵をつける。ワンルームの中央にある椅子に座り、机を挟んで2人は正面に向かい合う。
会話はなかった。イクチはネットワークが再度切断されていることに気付き、スマホ、タバコ、ライターを机に置き、それを右手で弄って時間潰しをしていた。センティコアはじっと我慢しているように見え、両の拳を腿の上に置いて、震えている。ホログラムの映す光が白から橙色に移行し始めた時には、イクチはそのまま眠ってしまった。それからすぐに、か細い声でセンティコアは泣き始めた。ホログラムの夕陽は涙を照らし、無情にも範囲の無くなったハピタブルゾーン、響く空の音が感情を激動させる。
イクチは、扉の開く音で目が覚めた。目を開けるだけで留めていた姿勢は正面に居たはずのセンティコアが居ない事で破れた。弾けるように立ち上がり、風呂の電気がついていないことを確認すると、外に出ようとする。そこで出会ったのはハティーだった。
「あっハティーさん、センティ見ませんでした?」
「ん?見てないけど、もしかして今部屋の中にいないの?」
イクチは数度頷いた。彼女は手に持ったカクテルを手すりの上に乗せると、イクチに「ここで待ってて」とジェスチャーを送る。そしてイクチの視界から消えた。
「……やっぱり耐えられないよな……センティは」
ズルズルと尻尾を引き摺りながら、イクチはベッドに座った。そして深呼吸する。そして人差し指を噛み、悔しむ。仰向けに崩れる。
「空が割れた……何で今、私達が生きてる時に」
行き場のない怒りを感じている。指を離し、右腕で目を隠すと、今日の記憶が鮮明にフラッシュバックする。しかし、知らない記憶が混じっていた。
それは、ハティーの情報屋から逃げた時、背後で手を差し伸べる人物に関する記憶。イクチは振り返った。その人物は自分の身長を優に越しているように見えた。手は深海の様に黒と紺が混じっている爪の伸び切った凡そ人間とは呼べないもの。それが人間だとわかっているのに、ハティーの警告を聞かないままイクチは手を取った。そのまま引っ張られ、海に落ちていく……暗い、未曾有の中、生温かい水と冷涼な水を同時に肌に受ける。
「やっと来てくれたのねぇ。歓迎するわよぉ」
聞き覚えのあるその声は本当に嬉しそうにそう言った。イクチは頷く。それこそ自分のいるべき場所だと錯覚していた。タバコは水上に浮かんだままイクチの懐には戻らず、首飾りもすり抜けてしまった。
声の主にも、爬虫類のような尻尾がついていた。同族がいて、イクチは安堵した。
目が覚めた。また目が覚めた。白い天井は見覚えがなかったが、見覚えのある狼の尻尾が映ったので、これが現実なんだと思った。
「ミズラハ……じゃないや、イクチ君。センティコア君はエレベーターの近くにいたよ」
ゆっくりとハティーは言った。コーヒーを挽く音が聞こえたので、目を動かすのをやめた。
「もう機能停止していたけどね。洪水は既にここを通った。地表は確実に削られてるし、ただの地下壕では生き残るのは無理だ。それはセンティコア君に言わなかった」
「……ありがとうございます」
イクチは上体を起こし、揺れる頭を抑えた。尻尾の付け根が痛い。
「そして、しばらく数年はここから出るのは無理だ。何だっけ、地理用語における……オボツカグラの生成を待って、エレベーターを修理してからになる。最も、ここに残っていてもいいけど」
「オボツカグラって……先に水のなくなる場所でしたっけ」
「うんうん」とハティーは言った。お湯の沸いた音がして、コーヒーの匂いが辺りに充満する。イクチはまた同じ椅子に座り、センティコアの座っていた場所にハティーが座った。
「ここでの諸々を決めるのは明日にしようね。君達も精神的にマズイでしょ」
「そうしましょう……流石に疲れましたし、色々ありすぎました」
またも沈黙が流れる。正直イクチは砂糖と牛乳を入れたかったが、この空気を乱すのは忍びなかった。
「アラーニェのジジイは羨ましい限りだよ。あんな捻くれ者についていくのが2人もいるなんて僕だって思ってなかった。好き好んでワンオペしてた人同士だから急に雇ったのには正直驚いたんだよ?」
「センティはアラーニェさんに憧れたと言っていました。だから、アラーニェさんもセンティに合わせたんでしょう。私もセンティと同じような理由ですけど」
老いぼれアラーニェ、アラーニェのジジイ。好き勝手言う彼女、それ故に信頼も、怒りもあるのだろう。空が決壊した音はまだ響いてこない。上で何が起こっているのか知る由もないが、誰かの悲鳴が聞こえる気がする。
「それで、電話で言えなかったことに関してだけど」
「洪水とわかった理由でしたっけ」
「うん」ハティーは頷いた。彼女は懐から2枚の折り畳まれた紙を取り出して、1枚を広げた。地方紙のようだった。
「2週間前の新聞さ。反教典の奴らによる殺害事件……誘拐殺人とかいう、まぁ、気味の悪い事件ではあるのだけど。そこらへんの知り合いが言っていたんだ。早朝、趣味の悪いラッパの音を出す何者かがいたと」
「そこに何の関連が?」
ハティーはもう一枚の紙を広げた。それはイクチには読めない言葉で書かれた古い本の1ページのようだった。
「『
イクチは黙りこくった。とにかく現実を直視するには目に悪すぎる。
センティコアは静かにフラフラと部屋に戻ると、そのままベッドに入り込み、動かない。
「……ここのシェルターにいるのは僕ら3人だけっぽいな、イクチ君。センティコア君の事、ほんと頼んだよ?」
イクチは頷いた。ハティーはそのまま部屋を出て、どこかへ行った。残された彼女は後ろを向いて、眠っていると見られるセンティコアを見た。極度の疲労、精神摩耗、可哀相とも思うが、自らの蒔いた種と言われればそうなのだ。
窓はもうすっかり光を発さなくなったのに気づき、イクチは部屋の電気を消した。
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