第6話

「センティ!センティ!」


無言で戻ろうとするセンティコアをイクチが必死で抑える。尻尾で、右手で、足を踏ん張って。それでもセンティコアの馬力が勝るようで、ジリジリと地面が削れる。


「先輩!聞こえてるんですか?!」

「マスター……子供たち……」


世迷言を言うセンティコア。彼女の振り撒いた優しさが、今、彼女の首を絞めている。彼女の判断力に麻酔を投じている。それに比べてイクチはこの地に根付いた郷愁の念は少なく、それ故にタンポポの綿毛のように親元から離れることができる。


「チッ……聞いてんのか!!」


左手で服を掴み、尻尾で引き寄せて自らの後ろに倒し、伏せる。倒れ込んだセンティコアの腕を左肘で抑え、右手を地面につける。センティコアの目は虚。何も見えていない。しかしそれ故に見える景色こそ彼女の望んでいる結末なのかもしれない。全てが杞憂で、それに安心して笑える夢を。


「海が来る。アラーニェさんは先に行くように言った。ハティーもアラーニェさんが避難場所を知っていると言った。他の者にお前の行動が制限されるわけないだろ!助ける助けないじゃない!!生きるか死ぬかだ!!」


センティコアは涙を流していた。センティコアはイクチをじっと見ている。深淵の様に。故にイクチもセンティコアを見ている。より強い感情で押しつぶしている。


「お前は自分の生きる価値が他人を助けるためにあると本気で思っているのか?!お前は、生きる価値を持たない人間を本当にわかっているのか?もう一度よく考えろ、生きたいのか!死にたいのか!」


センティコアは嗚咽を漏らし、さらに溢れ出た温かい涙はイクチの心配からくる涙と融合し、より早く地面に落ちていく。センティコアはしばらくして、小さく答える。


「…………生きたい」


それを聞くと、イクチは自分の涙を拭き取り、センティコアの襟を掴んで乱暴に立ち上がらせた。尻尾を先輩に巻き付け、再び離れない様にする。


「……急ぐよ。ここからの旅路は長いんですから」


歩き始めて10分、音が響くたびに空を見た。ガラスドームに軋轢が入るように空が割れ、黒い世界が姿を顕わし始めていた。尻尾に巻かれながら考え事をしているようなセンティコアを、イクチは引っ張っていた。


「……マスターはね。私がまだ教育施設にいる時に初めて見たんだ」


センティコアが呟き始める。


「おっちゃらけた人だったよ。どんな質問にも答えられるのに、自分のことは全然答えなくて……そんな人に憧れちゃったの。おかしな話だね」


イクチはあくまで無視を決め込んでいる。そんなことを気にしていないのはお互い様だった。既に山路は狭く、雨が降り始めてきていた。


「イクチは……マスターのことどう思ってる?私は……私はね……」


そう言いかけて、またセンティコアは泣き始める。イクチは少し自分との距離を縮め、心理的安心を与えようとする。ハピタブルゾーンの境界を跨いだ。


「アラーニェさんは変人です。変人としかないですよ、あの人は……はい、そうとしか言いようがありません」


タバコを取り出すと、火をつける。震えた手でタバコを咥えて、一気に吸い込んで咽せる。


「私は孤児でした。それを救ってくれたのはあの人でしたね。あの人は私に偏見なく接することを何の苦とも捉えませんでした。それが幸せだったんですよ」


センティコアは頷くままで、何も言わなくなってしまった。


「身元不明の私はアラーニェさんの探偵事務所に就職するか、孤児院に行くかの選択を迫られました。彼は『自由に選んでいい』と言いました。私はその通りにしました」


雨はより一層ひどくなり、服を濡らす。再び音が響く。


「彼を憎んだことは一度もありません。しかし彼を羨んだことも一度もありません。探偵なんて肩書き、さっさと捨てて仕舞えば今までの責任も放っておけたでしょうに」


センティコアはその言葉にハッとする。もしかしたらアラーニェはセンティの憧れが自分でなく探偵という役職だと思ったのではないか。彼の降り掛けた看板を支えたのは紛れもなく彼女だった。

掃除をした。植物を垂らしているのを片づけ、ゴミを捨て、有り余った身銭を切らせて家具を買ってもらった。

看板を新しくした。町工場の工員に彼の知り合いがいて、そこに依頼してもらった。


「私、わがままだったんだね」


イクチは答えない。

山道が急に開け、道路が舗装されている今までの景色に合わないその空間に唖然とした。2人に声がかかる。


「あミズラハ君にセンティコア君、元気……ではなさそうだね」

「ハティーさん。ここが……」


ジカミヤパラディス。ハティーに釣れられるがまま内部へと案内される。エレベーターは12分間の間ゆっくりと下降を続け、無機質な廊下に出た。その間、アラーニェの昔話に花が咲いた。ハティー含め、あの街の住民は全員がアラーニェのジジイのことを知っている。だから安心しな、あの人の決定はこの街の決定だ。そう慰めていた。


「そうだっ!電話は掛けられない?」


そんなセンティコアの言葉には誰も応えなかった。電話のコールにも、返答はなかった。

理性的に考える2人、情で考える1人。共通の話題がなければ会話が弾むことなどありはしなかった。   

イクチは視界の端で何かが蠢いたのを見た。それに鮮明な記憶があるが故に、幻覚であると自分に暗示を掛け、事なきを得ようとする。


「2人の部屋は一緒でいいかな?共同生活っていうのは今日からお互い様だからさ」

「大丈夫です」


部屋の中には生活に必要なもの一式が揃っていた、出来るだけ地上の生活に合うように、窓の景色はホログラムで、食器は無機質じゃない普通のを。それでも埋まらない穴はあるが、放置するだけ無駄だった。


「……生きてると、いいなぁ」


イクチはその言葉に対し、何も言うことが出来なかった。

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