第5話
10分くらい歩き、舗装された山を登り始める。その時点で電波はだいぶ復旧してきている。近くに中継車が来ているらしい。そこでふと気づいたのだが、ハティーは逃げないのだろうか。イクチは尋ねた。
「ハティーさんは避難しないんですかね?」
そう聞くとセンティコアは「あっ」と素っ頓狂な声を出すと、直ぐに携帯を取り出し、電話をかけたのか耳に当てる。しかしスピーカーにしてイクチに聞こえるようにしたほうがいいと思い、丁度同じ距離であるように携帯を持った。すぐには電話に出なかったが、7コール後にようやく応答があった。
「何ぃ?センティコア君」
「ハティー?今そっちは大丈夫?」
ハティーの声以外に、物音は聞こえない。それ故の心配もあったが、イクチを迎えた口調と同じような声が響く。
「なんかアキレウス隊って言うのが僕の呼び鈴を鳴らしたよ。『海が来る。直ちに避難してください』なんて言ってたね。地下連絡通路行ってるんだから僕は『今避難してますよ』って言ったけど」
「呼び鈴……にできることなのかなそれ」
イクチが少々困ったように言う。センティコアはアキレウス隊という言葉の響きに聞き覚えがあった。主衛区画の中で爪弾きとも呼ばれる部隊であった気がする。足が速いわけでもない……と言う話だったが、イクチが1時間近く掛かった道を10分足らずで行っているのならば十分速い括りの筈だが……
「僕にとってあの呼び鈴は僕がここに居れるための証明材料みたいなものだよ。さて、洪水の経験って2人ともあったけ?」
「あるわけないじゃんかよ。2回目の洪水が絵本になってるんだよ?」
「それもそうか」ハティーは焦っているらしく、それが口調には出ないものの発言が整合性を取れていない。
「そうだったねぇ。ミズラハ君は一緒そうだし僕も安心したよ。避難場所は見つかってるかい?」
「……正直、高いところを目指すだけです」
センティコアは申しわけなさそうにそう言った。電話口からはため息が聞こえ、歩を止める。ハティーは子供をあやすようにも、大人を叱責するようにも取れるような声で言った。
「君たち絵本ほんとに読み聞かせしてるんだよね?地下に逃げるべきだよ。アラーニェのジジイそう言わなかった?」
「地震によるプレートの移動が顕著です。余震に耐えられるようなシェルターは……」
一つ大きな音が聞こえた。砲撃音に近いそれが聞こえた時、2人は反射的にアキレウス隊の向かった方向を見た。それは、一つの大きな壁だった。白い、泡と液体でできた壁。彼女らは再び歩み始めた。
「ジガミヤパラディスはここから近い。そこで落ちあうことが先決だな……今どうせ山の中腹にいるんでしょ?そこから2,3km先、そのまま真っ直ぐ進んでよ」
「ジガミヤパラディス?聞いたことないけど、まぁそのまま行きます」
ハティーは元から謎の多い人物だ。個人探偵事務所の業績中間報告の立場にありながら情報屋であり、1人で営業している。噂によれば先祖の血縁を調べていく為だけに情報屋を始めたと言われている。
「えっじゃぁ!マスターとか負傷者は大丈夫なの?それに他の逃げてきた人たちも……それはどうなるの?!」
「老いぼれアラーニェはそこを知ってる。ただ、間に合うかな……一応定員があるんだ。洪水は長いからね」
絶望するセンティコア。今まで助けてきた老人、子供、子供に教えるボランティアの先生、全てが助からないまま自分が助かるという状況には……やや自棄的な感情が湧く。
「あまり考えない方がいい。そう言う選択が人生に何度あると思っているの?君たちはまだ若いからね。生への執着だってしつこいもんだよ。なんたってある」
「でも……でも……」
センティコアが苦悩している時でも、歩みは止められてさえいない。結局はハティーのいう生への執着に持ち上げられている。イクチはタバコを取り出すより、壁を見て、タバコをしまった。
「……行きましょう先輩。私達はまだ生きれます」
「イクチ?」
潤んだ瞳がイクチの鋭い、無感情な目に映る。イクチは下を向き、センティコアの手を持つと、さらに速いスピードで歩き始める。あの水はイクチを狂わす。あの海はイクチを狂わす。あの海に見える生物は……
「アキレウス隊はあの波を食い止める術を持っているらしい。君達が徒歩で間に合うハピタブルゾーンの境界。急げ。海は人を飲み込み、還元するよ」
イクチは尻尾でセンティコアの手から携帯を奪い取ると、スピーカーモードから受話に戻す。
「ハティーさん、貴方はどうしてこの場所を知っているんですか」
「(その場所はアラーニェが設計したものだからさ。僕と共用でね。使うことはないと思っていたが、杞憂は来たみたいだ)」
海に飲み込まれる人の声が聞こえる気がする。集団幻聴、空気に響く水の破裂音は心を物理的に揺さぶるものだ。イクチは驚いたように反応すると、また耳に当てる。
「……アラーニェさんを生かしたいんですか、殺したいのですか」
「(生きたい奴だったら生かすし死にたい奴だったら死なせるさ)」
救急員は何故今の今まで来なかったのか?何故今、洪水が来たのか。津波であるなら、何故無事だったのか。センティコアは嫌な想像を良い思い出で払拭しようとし、洗い流され、現実を見せられた後にそれから逃避する。
「最後に聞きます。洪水だと何故分かったのですか」
「(予言さ。本来の日時とはかけ離れているけどね。あとは、また別で話そう)」
はぁ……とイクチはため息を吐いた。センティコアの方を一瞥し、通話を閉じた。そしてタバコを取り出す。
「タバコ、やめたんじゃなかったの?」
「……センティコアさん、それは2年前の話です。今じゃありません」
また一際大きな音が轟く。一種の慟哭のように、空が割れたような音が響いた。
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