第4話

アラーニェ事務所の前では、センティコアが自らの上司であり、社長でもあるアラーニェの車椅子に手をかけていた。イクチは既に精神的疲労が大きかったが、センティコアを見れば少し安心したようだった。


「お!イクチ久しぶり〜!」


イクチは虚な目でセンティを見て、その次に鋭い目のアラーニェと目が合った。年老いて、自分で行動するのが難しくなった彼だが、その目に狂いは無い。


「遅いお帰りだったな、イクチ……はぁ、早めに帰って来いと言っただろうに」

「……すみませんアラーニェさん」


センティコアはこの微妙な雰囲気に少し戸惑っていた。イクチは地震でつかなかった電波が復旧したのか携帯に着信があったことに気づき、それを見ると、アラーニェから強い語気の心配のメッセージや地震情報が多数届いていた。


「まぁ良い、生きていたならば。こんな弱小探偵事務所に就く物好きなぞ、あと見つけられる気がしないからな」


アラーニェは息を吐きながら言う。彼なりの心配が解けた表れか、カップに入れた酒を飲んだ。探偵事務所の地下深くには食料の貯蔵庫……いや、今は酒の貯蔵庫があり、たまにイクチにも取りに行かせる。そこらへんの酒好きの範疇を超え、数十年来の探偵生活で積み立てた財産を4割消耗してまでたっかい1Lの酒を手に入れ、5年かけてちまちま飲んでいた。


「被害は甚大だ。平和ボケしていた柔な住民は、少々パニック、もしくは死亡した。建物は半壊なのが多い。通信障害も起きている。救急員はじきに来るだろう……少々遅すぎるが。特に大した怪我はないんだな?イクチ」


センティコアに合図を送り、車椅子をイクチの正面近くまで運んでもらう。そしてまたも鋭い目がイクチを睨んだ。彼女はそれが優しさとわかっていながらも、不器用なその目に狼狽えた。


「え、まぁ……はい」

「私が見るに、お前は何か怖い思いをしたのだろう。顔が体温に比べ低いし、白い。こっちへ来なさい」


イクチは屈み、目線を合わす。アラーニェはよろめいた右手で額を合わせる。


「何が起きたのかは言わなくていい。大切なのは我々が生きている鼓動を感じられる今、そしてこの先だ。そしてこの先に何が起きようとも、鼓動が尽きるのは天からのお呼びからだけだ。そう決めただろう」

「……はい」


アラーニェからイクチへ、熱が伝わる。それは彼女の海水によって冷えた頭を再び温める。やはりこの場所が一番安心する。

少しした後、イクチは体制を戻した。額に当てた手がほのかに他より暖かい。


「まずは救急員を待つしかない。酒でも飲んで待ってるか?」

「いえ、お酒はちょっと……」


控えめに首を振る。アラーニェはセンティコアの方も見るが、指でバツを作り断った。溜息が3人の間で吐かれる。

車のサイレンが聞こえ始めるとそんな話はどうでも良くなり、音の発生源が近づいてきていることに安堵し、それに注力した。どこから来たのか瓦礫の後ろから人間が出てきて、皆で車を待つ。異様な光景だった。


「やっと来たの……遅すぎないかしら」

「数は来るんだろうなぁ?負傷者も沢山いるってのに」


周囲から不安と不満が聞こえる。車はすぐそこで止まると、複数人が降りてくる。迷彩柄で、武装している……救急員ではない。首にロザリオをかけたそれらは生存者も、死体も、負傷者も見向きすることもなく、瓦礫の道を走っていった。そんな喧騒の後、車からもう1人、運転手が降り、3人の前にきっちり立ち、こう叫んだ。


「海が来る!」


その簡潔で絶望的な声は反響する。反響し、なお反響する。


「即刻立ち退くように!これは命令だ。負傷者は後続の車にて回収する!」


それだけ言うと、先ほどの部隊と同じように、目の前を突っ切っていった。


「ま、まず負傷者を集めちゃいましょう、ね!」


センティコアはそう言った。そう言っておきながら、ここあたりの負傷者の数は多い。車が4台ほど来なければ乗せきれないだろう。それをわかっている上で言うのが彼女の優しさらしい。

瓦礫の路地から体を預けた負傷者が、瓦礫の中から自家製の担架に乗せられた男性がぞろぞろと出て来れば来るほど、センティの曇った目が陰る。


「まず、2人は先に行きなさい」

「アラーニェさん……?」


彼はため息を吐いた。


「当たり前だろう。負傷者は後から回収されるのだから、怪我の小さいお前たちがまず逃げるべきだ」

「いやでも、マスターは負傷者なんかじゃ……」


そこまで言ってセンティコアは口をつぐんだ。アラーニェは器が大きいから、それがギリギリのラインであるから怒りなどしない。


「……まぁ良い。別に良い。私だって顔が広いから、君たちが居なくとも指示を送るぐらいはできる。私を信じなさい」


一度アラーニェは彼女達から視線を外した。息を吸ったのか吐いたのか、もう彼女達を見る事は無く、小さく言った。


「ハティーに出会っただろう。彼女はお前達をこの状況から救う。そう言う約束だからな」

「約束……?」


アラーニェはこれ以上喋らない。センティコアとイクチは目で語り合った。イクチは建物の中に入ると、自分の机からタバコ、棚の中から護身用の形見であるナイフを取り出し、ポケットにそれぞれ入れる。ライターももう一つ持っていくことにした。


「準備はできた?」

「……出来ました」


それを聞くと、センティコアが首で合図し建物の裏に行く。海が文明を取り込む姿を見たいというイクチの欲望を抑え込み、逃走を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る