第3話
「……チッ」
分かってはいたが、視界が開けている。自分の抜けてきた窓がなぜ歪まずに残っていたのかが不思議なくらいだ。
明らかにおかしい状況にあると言うのにセンティは「大丈夫」と明言しているのが何故か気にかかる。それに、何故人がこんなにも少ないんだ。丘の上にあったとしてもこの場所はまだ住宅街だ。携帯を確認する。12時30分。歩いてアラーニェ探偵事務所につけるには……1時間以上はかかる。それまでこの景色を見ていなくちゃならないのか。
「はぁ……やっぱり先輩なんかについて行くんじゃなかった……」
悪態を吐く。丘を下り、十数分歩ききった頃にはタバコがなくなってしまっていた。やはり周りは大抵壊れてしまった家や地面の割れ、火災も発生している。こんなんでどこが「大丈夫」だ。埃が付きたく無いから尻尾を上げておこう。
その時、視界の端で何かが蠢いたのが見えた。紺色の何かが。それは裏路地に入れ込んだ……追ってみるか。
「もしかして人じゃ無いのか……?」
袋小路の中、普通逃げられないと言うのにそれは既に見えない。しかもこの裏路地に入ってから……耳障りな歌が聞こえてくる。どこが音の発生源なのかも分からない。
「気持ち悪ぃなぁ。何処からの歌だ……何処への歌だ?」
地面に水の跡がついているのを発見した。それは手を付けた壁を伝い、割れた窓の中に入っていた。少し助走を付けジャンプする。水道管に自分の頭の少し上くらいに尻尾を巻き付け、左手で手伝って体を持ち上げる。窓の縁に手をかけ、尻尾を離し、管を足で蹴ると左手を右手の隣に持ってきて、そのまま侵入する。そこで見たのはさっき少しだけ見えたものだった。やはり人ではない。
「さっきからこの不愉快な歌を歌っているのはお前か?」
紺色の流動体はこちらに気付くとゆっくりと近寄ってくる。逃げ道のためさっきの窓を確認しておく。歌はより一層強くなった。
心拍が早まる。体全体の温度も上がってきていた。黒い生命は一つの音のピッチを変えたような機械的な音で喋りかけてきた。
「海に還るのがそんなに嫌なのぉ?少し悲しいわぁ」
体内で録音テープでも回しているのかと言いたいほど、体と言葉が合っていない。生命体は間2mほどで停止した。
「海に還る……?お前はそもそも何だ?」
「質問が多いわねぇ。けど喋ってくれるだけありがたいわぁ」
そう言うと、歌は止んだ。そうなって気付くが、周辺の地鳴りのような音は未だ続いているが、そのほかに音は聞こえなかった。過呼吸気味の息を抑えながらそいつの話を聞く。
「洪水の3回目が起きるのよ。神がお怒りになったわけでも予言が当たったわけでも無いけどねぇ。あなたならとっくに勘付いているものだと思っていたのだけれど、違ったかしらぁ?」
「……嫌な予感はしていた。ただそれだけだ」
後退りし、窓に右手をかけ、左足を縁に乗せる。じりじりと紺黒は近づいてくる。毛高き理想を解く愚者に近いようだが、こちらを安心させるかのような口調がある。危険だ。
「乾いてるわねぇ、忘れちゃったのかしら?海から生命は進化してきた。海に還るのは怖いことじゃ無いのよ?私達の会話に挙がるような人間って稀ですもの、イクチ……あなたみたいな人を私達は待っているのよぉ?」
「……気色悪ぃ……結局何者なんだ、お前は誰だ」
笑っているような声が響く。イクチは欲望、羨望に必死に抵抗していた。この景色、壊れた建物、海というワード、全てが彼女の頭に響き、共鳴していた。血が蠢いている。海の波の揺れのような感覚を受ける。
「あなたは1人じゃないのよ?私達がいるんだから、決して孤独になることはないの。さぁ」
青黒さは広がり、波及し、イクチを取り囲もうとする。半ば狂気気味となった彼女は窓から飛び降り、受け身を取る。そしてできるだけ早く、水のないところに行くために走った。
残された海の怪物は人間に向かって聞こえないように言った。
「いつからこんなになってしまったのかしらねぇ……私に共感しないなんて悲しいわぁ」
そう言った怪物は水に潜り込み、姿を消した。
イクチはタバコを吸いまくった自分を憎んだ。今こそ必要だって時に何で無いのかと憤っている。走りながら自分の指を噛み、とにかく自分の居場所へと還る。いや、センティのいる場所へ戻る。
「何だってんだ。私はあいつらじゃない……知らない怪物にはなりたく無い……」
流石に疲れて、あと歩いて10分だってところで瓦礫に座り込む。息を整えるためにしばらくは浅い呼吸が続いた。
彼女は汗を殆どかかない体質で、体温の上がり下がりが激しい。しかし彼女は自分の顔を伝う水分があることに気づくと同時にそれが涙であることがわかった。
アスファルトに没し、色の濃くなったそれを見ると、さっきの怪物を思い出してしまう。イクチは涙を拭い、その手についた水分を払い落とすと、その場を去った。
時折後ろの建物などの影をチラチラと見るが、そこに水はなかった。
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