第2話

「あ、起きたか」


イクチはベッドの上で目を開けた。先ほどまでの海が目に焼き付いているものの、自分の身体が今よくない状態にあると言うことはわかる。天井は黒い。外から何かが低く唸るような声が聞こえる。首を右に左に傾けると、見たことのないローブとが見えた。


「あなた、は?センティは……センティコアはどこにいるんです……?」


動こうとしたところで激痛が走る。視界から消えてそのまま帰ってこなかった灰色の尻尾の生えた女性は病床の彼女の額にある濡れた布巾を指で押して体勢を戻した。


「ハティ・マーニ。ハティーと呼んでくれて構わないさ。センティコア君は一旦君の言う上司のとこに行ったよ?あれ、聞いてなかったけ?」

「どういうことですか?」


イクチは声の出しにくい体勢のまま、食い気味にそう言った。何かしら自分と相手との認識がずれていると直感的に感じている。ハティーはしばらく思案していたが、紅茶のためのお湯が沸いた合図がしてそっちに気が向いた。


「とりあえず温かいものでも飲まない?」

「……そうします」


ハティーは遮蔽用のカーテンを開け、どこかに去っていった。イクチはそのカーテンの隙間をほとんど無意識的に覗く。そこから見た少しの景色は書類と瓦礫の山だった。取り敢えず落ちてしまったのを寄せて対処したようで、瓦礫のないのは自分の周りだけなんだ、とイクチは思った。

天井に目をやり、あの時の目を思い出す。爬虫類のような目、こちらを全て見透かすような目。あれはセンティも見たのだろうか?


「できたよ〜ハチミツ紅茶」


カーテンの外から声が聞こえる。ハティーが戻ってきた。

イクチは思索をやめ、自分、周りの状況を理解できるようになるようになれと願う。あの荒波が、あの恐怖が幻覚とは一抹も思えなかった。


「ありがとうございます、ハティーさん。それで……」

「待って。もう少し間を置こうじゃない」


中に入るとハティーが机に盆を置き、ベッドの上体を起こさせる。そしてカップを一つ持って椅子に座った。イクチも机からカップを取り、砂糖を少し入れた後に飲む。内部に熱が染み渡り、体全体の熱が上がった。


「君たちに書いてもらいたい書類を取るのに手間取っちゃっててね。戻ったら君たちが倒れていたんだ」

「……なるほど?」


イクチは珍しく人の話を素直に聞いていた。一瞬タバコが頭によぎったが今はモラル的にもダメだろう。ハティーは言葉を続けた。


「君は僕が来た頃には既に起きていて、センティコア君が気絶してたよ。イクチ君、君じゃないんだよ。そうだな、僕は『大丈夫だった?』と聞いた。それは覚えてる?」

「いえ、全然。私……」


そこまで言って口をつぐんだ。優雅に紅茶を飲む彼女を気にも止めず思考する。確かに起きているのに覚えていないということはよく経験しているし、今回もそれで片付ければそれで良かった。しかしそれを話しても良いのかと考えるたびに面倒くさくなってきて、首を横に振った。


「君にとって言えないのか言いたくないのかわからないけれどそのまんまでいいさ。それで、センティコア君を起こしたら、上司に連絡するだなんかいってどっか行っちゃってねぇ」


それでこの場所にいる、とでも言うように両手を大きく広げるハティー。なかなか地震について触れない彼女にイクチはもう嫌気が差してきていた。飲み干したティーカップを机に置き、ハティーの方をじっと見た。何を言いたいのか察したのか、彼女は言う。


「……地震は終わったよ。とりあえずはね。ただまた次が来る」


ハティーはため息を吐く。机の上にある携帯に着信があったことに気づき、メッセージを確認する。それにハティーは反応した。


「なんて書いてあるんだい?」

「センティからです。『とりあえず地震終わったぽいし、あの説教おじさんも無事だったよ。イクチは大丈夫だったかな?』と……」


前髪を後ろに退けよく考えていた。地震がこんなので終わるわけがない。連日の地震で麻痺しきっている。今まで地殻変動的に満足できる場所に起きてきた。しかし、ここで地震が起きると言うのは初なのだ。


「えーっと……ミズラハ君だっけ?」

「……いえ、イクチです」


ハティーは沈黙したが、その理由は私にはわからなかった。ミズラハと呼ばれる道理も何もなかったから、黙りたいのはこっちの方なのは間違いない。


「ここ最近、地震が頻発していたね?その原因がこれ、いや、重なったからこそこれが起こったのだろうけど、それにしても、まだ予言の時でもないのに……」

「予言?」


この特異な状況ではどうしても神話にある洪水の記述に頼ってしまう。2回目の洪水が起きたのは予言が的中したからであったため、関連性を感じずにはいられなかった。


「……別に、あれだよ。独り言」


ハティーはそう呟く。カップと共に盆を持って一旦引き上げたハティーはとても焦っているように見えた。イクチは不思議に思いながら、タバコをポケットから取り出すが、すぐに戻した。なぜか若干潮の匂いがする。あの教育施設でみたあの不気味な青の絵を今思い出してしまって苛立った。

不思議と足の痛みはもうない。スマホだけを懐に入れ、音を立てぬように、ベッドから降りた。ハティーの出ていった方の逆のカーテンを開け、半分だけの窓から出る。


「ミズラハ〜?」


ハティーの声が聞こえる。別に引き止めるためではないようだった。


「君、自分に何かができると思っているの?」


その一言が海蛇を立ち上がらせる意志を阻む。窓から見えるハティーの目は可哀想なものを見る目のようだった。イクチはこの目をなぜされているのかを理解できていない。ハティーですら、説明するには難しい。ミズラハの伝説。イクチよりさらに強大な海の怪物に関する伝説。


「自分の知りたいことを知りたい。だから動く。それに、私に知りたくないものなんて無いから」


かといって、ハティーから目を離せてはいない。周りの景色を見たくはない。嫌な想像ばっかりがあったから。何より足元の瓦礫で半分が推測できている。


「怖いんじゃないの?」


ハティーが囁くように言う。


「知ることが、怖いんじゃ無いの?」


イクチは舌打ちをした。自分への苛立ちからで、無造作にタバコを繰り出すと噛むように吸う。


「私は"あやかし"になりたく無いのです。自分の知らないものは私にとって名も無き怪物で、その怪物から見たら私も同じく怪物です。私は怪物じゃない。だから怪物に歩み寄るんです」


十数秒間の沈黙の後、ぎこちなく首を回転させ、イクチは外の景色を見る。

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