幼馴染は寝取られなんかしない
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それは凄まじい鮮明さを以てして俺の精神に突き刺さった。
鬱勃起などとほざいている輩がいるが、あれは所詮他人事でシチュエーションに一時的に自己投影しているから得られる、いわゆる逃げ道のある快楽だからに過ぎない。
現実のそれは責任に似て、目を背けることも逃げ出すことも叶わない苦痛なのだと身をもって理解した。
『ごめ、ごめんねぇ、しゅーくんっ。ごめんねっ』
「しず、く……」
おれの、おさななじみが、しらないかおをして、そこにいた。
白崎しずく。
どうして来てくれなかったのか、日付が変わる一時間前に戻ってくると、お袋は「あんた宛よ」とこれを手渡してくれた。
あるいは既にこの頃から、俺の脳裏には嫌な予感が漂っていたのではないかと思う。
絶望感が募っていって、全身の筋肉が嫌な感じで収縮した。呼吸が荒く、動悸が激しい。
痙攣しているように全身が震えているが、これは決して寒気によるものではないだろう。
「あ、ああああっ……」
赤く染まる視界の中、俺はモニターを殴りつけようとしたところで、
『メッセージを受信しました』
俺を正気につなぎとめてくれる音が響いた。
『ブランニュー羽場』
「あ……?」
『0009 風吹けば名無し 2023/12/24(日) 23:59:54.56 ID:Migu3d8a
いま天文台に向かってる
人のこと舐めんのも大概にしろよお前』
もう終電なんざとっくに終わっている。翌日は月曜日だ。もともとそんなに栄えていない街は、水を打ったように静寂の底へ沈んでいた。
俺は自転車を漕ぐ。いつものNORTH FACEのコートが性懲りもなく駐留するシベリア気団で膨らんで、インナーに寒気が入り込んでくる。だが火照った体を冷ましてくれるので、これでよかった。
ペダルを漕ぎだす感触は羽根を踏むように軽々としたもので、ギアの調子はいつになくよかった。思い返せばこんな勢いよく自転車を走らせたことなど久しぶりかもしれない。
満点の星空は種種雑多な光に満ちていて、月並みな表現だが星の海を泳いでいるかのようだ。
「あれ羽場、お前フラれたの?」
コンビニ前でたむろしていた田代一行に声を掛けられる。冬休みまで後二日は残されているっていうのに気が早い。
「いや、フったように見せかけて大好きな柊君に心配してもらおうとかいう、舐め腐ったクソメンヘラ女に一言もの申しに行く」
「やっぱお前白崎やめとけって。この間知り合った、あの、敬語の性格悪そうな美人。あっちの方がいいじゃん」
「ばかおま、俺はあれだよ。うじうじしながらも世話焼いてくれる家庭的なまな板女が好みなんだよ。ムチムチで溢れかえっているこの2023年に於いて、スレンダー貧乳世話焼きという属性がどれだけ貴重なものか」
「……お前そんなオタクっぽい口調だったか?」
「俺は生まれ変わった。ネオ・ブランニュー羽場と呼べ」
混ざりものしているっぽいあいつより、俺の方がより純正の羽場柊に決まってんだろ、殺すぞオラ。
夢小説みたいにしずくにだけ都合がいい人格しやがって。しずく全肯定マシーンかお前。情けなくならねぇの。
ただ、偶発的にそうなるよう仕向けられたとしたら不憫ではあった。
だが俺は違う。なんせネオがついている。
田代たちは俺の言っている内容がかみ砕けないようだったが、語感だけ気に入ったネオ・ブランニュー羽場というワードを連呼してげらげら笑っていた。俺はサムズアップだけ返すと、ペダルに掛けた足へ力をこめる。
しずくには強みがあった。だらしない俺──しずくが勝手にやるんだから仕方ねぇだろと言い訳したい気持ちはある──の面倒を見ているという強み。
精神的なマウンティングを取れる土壌がしずくにはあった。それがあいつの臆病さに立脚する傲慢さを育む土壌となってしまった。だから俺のせいでもある。これは受け入れるしかない。
だからって、俺はこれまでそれについて何もしないでいた。自転車は楽しい。こうして全身で、深夜特有のオレンジに明滅する信号をぶっちぎりながら駆けていくのは最高だ。全力で急勾配の坂を登り、一気に下っていくカタルシスなんて射精しそうになるほど。
しずくは常に傍にいた。だからいつでもいける。
わたしが望めば、いつでも柊君は迎えに来てくれる。それが白崎しずくの傲慢ならば。
俺がその気になったら、いつでも迎えに行ける。それが他ならぬ羽場柊の傲慢だった。
あの夜、しずくはあと一時間遅かったら低体温症に見まわれて後遺症が残るかもしれないというのが医師の診断だった。俺は確かにその場に居合わせて、話を聞いていたはずなんだ。
だからもっと早くすべきだった。なんていうのは、結果論にしかならない。
「信号機二枚抜き……たまんねぇよなぁ……!」
車の往来がない横断歩道を二連続でぶち抜く。スリルで背筋が凍えそうになるが、同時にゾクゾクと込み上げるようなものがあった。俺はこういうのが好きなんだ。誰も到達出来ない世界で受けることのできる風。
だから俺はガキの頃、躍起になって遭難したアホを迎えに行ったのかも知れない。
徐々に周囲の景色は山間部のそれと変わっていった。時刻は深夜2時21分。明日明後日も残尿みてぇに2学期が残されているのだが、もうそんなもんどうでもよかった。
俺たちはお互いの傲慢さに向き合うべきだった。
向き合うべきものと向き合わないのは罪だって、白崎家の親父さんはずっと言っていたんだから。
駐輪場なんてお構いなしにロードバイクを停める。
俺は息を切らしながら天文台まで走っていく。額から垂れる汗はもう滝のようで、多分だけどコートもこのあとはクリーニングに出す必要に迫られる。
天文台と言っても小規模なものだった。市街地まで2キロは離れているためか、まだいくらか人の営みを感じられた街の方とは異なって、ここはもう死後の世界であるかのように暗い。
「……」
安堵した。
そこには一台の軽自動車が停車していた。俺も何度か乗せてもらったことがある黒いミニバンだ。暖房の炊かれている運転席には、灰色のジャンパーを着た男が寝息を立てていた。恰幅がいい。きっと仕事は警察官だろう。
「……やっぱり、しゅーくんが来てくれるんだね」
児童会館のようなこじんまりとした天文台の足元には、フットサルは楽しめるがサッカーには向かない程度の芝生があった。
休日にはハイキングする家族連れやカップルでにわかに賑わうスポット。また光害の影響を受けにくい立地ということから、時折り噂を嗅ぎつけた天文オタクが立派な望遠鏡の傍に溜まっていたりする。
白崎しずくはそこで寝そべっていた。
いつ見ても美しい艶やかな黒髪が、満天の輝きを投射して、流星のように煌めいていた。
俺はしずくの隣に腰を降ろした。
「あのキモいスレッドなに」
「えへ、あ、いや、言い訳」
「言い訳か。なんの」
「……」
「こっちは全部わかってるから。お前がタイムリープしてきたみたいに、俺もブランニュー俺から話聞いてんだよ」
「ぶ、ブランニュー俺?」
「未来の俺と過去の俺が合体して超最強だって。しずく好き好きでしずくのためにしか行動しないマシーンみたいな奴。ああはなりたくねぇわ」
スーパーディープフェイクというソフトの存在を示された時には、あまりにも都合良すぎじゃないかと思った。だが実際にファイルが送られてしまえば信じざるを得なくなる。
「で、なんであんなクソみたいな動画俺に渡したのか説明してくれ。俺若干キレてる」
「中島さんが……」
「違うだろ。白崎家は母親の不倫で一度崩壊した。だからお前はそうなってんだろうが。じゃあ同じようなことをなぜ俺にしたのか、その理由を説明しろ」
俺はしずくの手を取った。どんだけ長い時間ここでこうしていたのか、骨髄まで冷え切っているみたいだ。指を絡ませてやった。
しずくは抵抗しなかった。
やがて隣から嗚咽が聞こえてくる。
どの質問に対する答えにもなっていないし、そんな甘えた姿勢を許すつもりなど断固としてない。
なんせこのまま行くと未来の俺は自殺するみたいじゃないか。中島の関与があったとはいえ、ドミノの最初のピースを倒したのは他ならぬしずくだ。人間とキャラクターの区別がつかない、致命的なまでにズレたお人好しに従ったのは、しずく本人。
こいつ自身の口から白状するまで、俺は解放するつもりなどない。
やがて気温が零下を下回るようになった頃、しずくはやっと口を開いた。
「迎えに来て欲しかった。わたしが逃げても、柊君だけは絶対に追いかけてきてくれる。そうあって欲しかった」
「……」
泣き晴らした瞼は俺の方を向いていない。
星空の輝きは、何万光年も彼方から到来するものだ。
いうなれば過去の輝きであって、現在のものではない。
それにロマンを感じるという意見も、納得はできないが理解はできる。
ずっと過去の輝きばかりに目を取られたら、隣にある現在はどうなっちまうんだよ。
俺はそう考えていた。
「お前さ、欠片も俺と向き合おうとしてないんだな」
「え……」
「一応さ、告るから来てくれって行ったとき、あれすっげぇ緊張したんだ。ちゃんとネットで色々調べたし、水野にどうすりゃいいかお伺い立てて」
田代たちからは盛大にからかわれた。呆れた顔で、むしろまだ告白していなかったのかとさえ言われた。
何も言い返すことはできない。
「迎えに行っても逃げて、追いかけても逃げて……俺はいつまでお前のことを追えばいい?」
「……わたし、は」
「どれだけ俺は惨めになればいい? 好きな子から逃げられて、でも追って来いって目の前でチラチラ現れて、じゃあ構おうかってなったらまたあたふたして倒れて……」
しずくの過剰反応はミュンヒハウゼン症候群という精神疾患らしい。劣った己を演じて関心を集めようとする精神構造。幼少期、誰からも見向きされなかった女の子は、そういう手段に訴えてまで俺のことを繋ぎ止めようとした。
そのたびに翻弄される羽場柊は、やがて愛想を尽かしてしずくから離れていく。
全てのキーは、コイツが勇気を出せるか否かにある。
「向き合えよ、俺と。そんな世界跨ぐほど俺のこと愛して愛して仕方ないんなら」
「……」
「俺は言ったぞ。お前をここに呼んだ。だから次はお前が言えよ」
「しゅー、くん……」
「わたしの幼馴染は、わたしのこと大好きだから、寝取られなんかしないって言えよ」
しずくの手のひらが、ゆっくりと力を込めて地面を押した。まるで生まれたての小鹿みたいだ。しずくがどんな表情をしているのか、星闇の最中ですらくっきりと浮かび上がるようだった。
しずくは立ち上がった。
「あのね……あのね」
臆病な女の子は、震えながら嗚咽混じりに切り出す。
「わたしねっ、しゅーくんのこと、ずっと、ずっと……! 見つけてくれたあの日から……! 迎えに来てくれたあの日から……!」
雲間から月が差し込んで、強い輝きがしずくを照らし出した。
「死んでもいいくらい、おかしくなりそうなくらい、大好きなんだよぉ……!」
いくつもの星明りに浮かび上がった幼馴染の目頭から、冬の冷気よりもずっと熱いひとしずくが伝った。
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