スワンプマンは面白くないですね
「……ごめんなさい」
親父も、お袋も何も言わなかった。額にフローリングの冷たさが滲む。学費を払って通わせてもらっている身分では、俺はただただこうするしかなかった。
「高校二年生の一か月という期間がどれだけ貴重なのか……」親父は渋面を浮かべながら続ける。「何か事情があったんだと思う。だが、人を殴ったという事実は、これから先お前の人生にずっと付いて回る。それだけは忘れてはならない」
親父は眉尻を下げたまま、白崎父と同じようなことを言った。
「……ごめんなさい」
「あれだな、母さん、今日か明日は焼肉でも行こうか」
「あなた前に健康診断に引っ掛かってたじゃないの」
親父は敢えて明るく言うと、お袋も殊更大きな声で親父の脇腹に肘内を食らわせた。
俺は部屋に戻る。やることもなくてスマホを開いた。昨日、羽田空港へ到着した辺りのLINEを再確認する。
『俺が勝手に出歩いたせいだ。ごめんしずく』
『謹慎を受けるのが、わたしだったか、柊君だったかの違いしかない』
『しずくも教室に居づらくなったら』
『そんなのはずっとだよ。柊君がいなくなる方が嫌だから』
俺ははっきりとしずくの友達と言える存在が、中島さんだけしか思い浮かばなかった。
自分の短絡さ加減に反吐が出る。茶道部の人だってしずくの友達になれるかもしれなかったのに、その可能性を俺は自ら潰してしまったかもしれない。
『なんて告白するのかも思いついたから、そっちに戻ったらちゃんと聞いてね』
それから連続してくまモンのスタンプ。俺は安堵すればいいのか詫び続ければいいのかわからなかった。
謹慎3か月。
それが俺へと下された罰だ。
調べてみたところ、暴力沙汰の一般的な謹慎期間については、2~3週間程度が原則なようだ。女性への暴力、それも他校の生徒。
これでもかなり斟酌してもらった方らしい。退学にならないだけ御の字だ。
中でも幸運なのが、志村一家も志村瑞樹の性質について理解していたことだった。
向こうは暴力を食らわせた俺に対し、小突くなど表面上は苛烈な怒りをぶつけてきたが、志村省吾──前の俺の同僚になる男──は、どことなく申し訳なさそうな目つきをしていた。ひとしきり怒鳴り終えた両親も、同様の色を俺へと向けた。
だから俺は少年院へ送り込まれることもなく、修学旅行も中止まで発展することはなかった。むろん志村家への謝罪として、卒業するまで毎月謝罪しに行くことが命ぜられた。
それに波及して、フォークダンスを含め他校との交流は見直されるとのこと。
本来の予定ならば今晩に交流が実施されるはずだったが、急遽ホテル近辺での自由行動へと切り替わったという。
俺の心象に関しては、
『いちおーウチから火消してみる。しずくんの言葉だと彼女補正でアテになんないから。ジョニーデップも手伝ってくれるって』
『俺のために無理しなくていい』
『お前のためじゃない。でもおおよその顛末からはしずくんから聞いた』
それは量子の重ね合わせや前のしずくからの接触ではなく、あくまで志村瑞樹から悪質な誹謗中傷を受けたという話へ変換してくれていた。本来のしずくは、機転の利く少女なのだろう。
『ごめん中島さん。ほんというとめっちゃ助かる』
『ありがとって言って欲しいかもしれんのぉ』
『うん』
『しずくんにはあんたいないとマジでダメだから。頼むぜ、マジで』
このように、友人たちがカバーしてくれるらしい。涙がちょちょ切れそうになった。
しかしながら、以前までのようにブランニュー羽場とか言ってふざけるわけにはいかないだろう。
進級するまで──あるいは卒業するまで、肩身が狭い想いを免れないかもしれない。当然それは俺が瑞樹を殴った罰であるわけだから、粛々と受け入れねばならなかった。
だが、もう一つ罰はある。
『柊さん、私です。家の前にいます。出てきてください』
「……早速かよ」
俺はいつものコートを羽織り、家を出た。
手近な喫茶店に入る。全国チェーンの底は、サボっている営業や2限目で終わりの大学生たちでにぎわっていた。
「ブレンド2つ」
「金は俺が出すよ」
「いいえ? ふふ、しずくさんに奢れば良いのではないですか? この可能性のあの子しか、柊さんと一緒にいられませんもの」
「なおのこと払う」
「あはははっ、はははっ、あーっはははは。みぐるしっ、見苦しいっ……ふふふ、ふ」
志村瑞樹は頬にガーゼこそ貼っていたものの、既に腫れは大方引いているようだった。
頑丈なのか。
それとも咄嗟に手が出たので、拳に力や腰が入っていなかったのか。いずれにせよ俺は相当な幸運に恵まれている。
「君も戻ってたんだな」
「ええ、だって挑発したのは私の方ですよ? どうして私も罰せられないと思うのでしょう。誹謗中傷で自死を選択した人なんて多くいるのに。ふふっ」
俺が退学という最悪の結末まで至らなかった要因の一つに、志村瑞樹の自供というものも絡んでいるのは皮肉な話だ。
俺は自分で起こした暴力事件に、他ならぬ被害者から庇われた形になる。情けなくて涙が出そうだった。
とはいえ、その顛末としずくに対する侮辱とは話が別だ。論理の面から俺は瑞樹に対して詫び続ける義務があるが、感情の面では瑞樹を許す理由など一つもない。
「……申し訳ありませんでした」
だが謝らなければならない。客観的に見れば悪いのは俺だ。 わかっていてやったのだから、なおのこと質が悪い。
すると瑞樹は白魚のような指先を口元まで持っていき、
「では、白崎しずくを捨てて私と恋人になりましょう」
「……それは」
「ふふっ、冗談です。この私は少なくともあなたに殴られたわけですからね、この期に及んで執着するようなことはない……それこそしずくさんじゃあるまいし」
志村瑞樹は、俺からの暴力行為を許す条件として「連絡先の交換」を提言した。そうしなければあることないことを騒ぎ立て、俺を退学まで追い込んでやる。半月状に歪められたいつもの目つきで、罠にかかった鼠を虐げるように。
「じゃあどうして俺に接触を? 金の無心か?」
「ふふっ、わかってるくせに。おどけるのが似合うほど爽やかな顔ではありませんよ?」
「……話せってことだろ、お前が口にしていた『外部からの接触』について」
我が意を得たりとばかりに頬をほころばせる瑞樹。珈琲も来ていないのに、舌の上に苦々しい味が広がる。
「しずくに許可を取らせてくれ」
「ダメです。自信がないから柊さんを束縛しているような女が、あまつさえ運命の相手の関与を許すわけないじゃないですか」
「……」
「自分が貶されるより、しずくさんを貶した方があなたには心痛を与えられるのですね。学習しました」
「どうしてそうなったんだ?」
「そう、とは?」
「どうしてそこまで性格が歪んだんだ?」
「ふむ。想像すればわかりそうなものですが。存外頭がよろしくないのでしょうか」
そこで注文が届く。瑞樹はドリッパー担当の店員がこちらを見ているタイミングを見計らって、スティックシュガーをどっさりと入れた。それはもう風味もクソもない。そこら辺のコンビニでコーヒー牛乳でも買った方がいいぐらい入れた。
ドリッパー担当の店員は、どこか不機嫌そうに顔を逸らす。瑞樹は歯を見せた。
「あの人、二股していますね。片方は妊娠しています」
「……」
「私がこう申し上げるということは、多くの可能性に於いて、あの店員は倫理的に堕落しているということです」
瑞樹はもはや砂糖の入った泥水と化したものを飲む。不味かったのか眉をひそめた。
「さて、そこの通行人。ああ、陰口で間接的に何人も退職へ追いやっています。学生時代にも虐めに加担していますね。本人は弄りの範疇と言い訳しているようです。愉快な方ですね。ですが仲間内からは頼られているので、自らを優れた人格者と考えているご様子」
「……わかったよ」
「後はそこの女性。不倫常習犯なのに、夫が同様の行為に手を染めた際には、まるで自分が世界で一番可哀想な存在であるかのように喚き散らしました。また同様に、インターネットで低所得者への偏見をまき散らしていますね。根拠はなんとユーチューバー!」
「わかったから。悪かった。もう言わないよ」
「おやおや、ふふ、察しが良いのか悪いのか。私ってなんで生まれてきたんでしょう。ふふふ、ねぇ? 柊さん?」
瑞樹が見ている世界は、地獄だ。
俺はかつて、世の中には知らない方がいいことが散見していると主張した。
それは全ての真実や事実を突き付けられるほど、人の精神は強固に出来ていないからだ。親や伴侶、親友だって人間だ。善意や善行のみで構成されている人間など、地球規模で見ても数える程しか存在していない。
田代が俺のことを腹の底で馬鹿にしたことなどいくらでもあるはず。それは中島さんや、両親、志村、そしてしずくだって心の奥底で俺への不満をぶちまけたことがあるだろう。
俺だってそうだ。些細な悪意はどんな人間の中にだって巣食っている。
それを全部ありのまま突き付けられて、俺は狂わない自信などない。
「志村瑞樹」
「あら、余所余所しい呼び方。どうなさいました?」
「……悪かった」
「それは自己満足でしょう?」
「その通りだ。でも、でもさ。しずくを悪し様に言うのだけは、止めてくれ。頼む」
俺は頭を下げていた。土下座だってしようと思った。そういう風にする俺を見て、瑞樹は心底面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「そういうのいいです。興覚めですね、なんですかあなた。普通の人みたいに。私の知る限り、他人への共感性も持ち合わせていない傍若無人な人物……と睨んでいたのですが」
瑞樹の笑みが止んだ。
「さっさと教えてください。白崎しずくを取り巻くすべてを。それは私の『直感』では得られない情報なので」
俺は、心の中でしずくに詫びながら、これまで俺が固めてきた推測を全て打ち明けた。
「なるほど……タイムリープ、ですか。それであなたは、20代後半へ差し掛かる段階で、未来の私と知り合った、と」
「ああ」
「ではなぜ私はあなたと会っているのでしょう? 学生時代のあなたは、白崎しずくに終始しているのが本来の歴史のはずでは?」
「これには、仮説がある」
「仮説?」
沖縄でそうされたように、俺はポケットからauショップで渡された安物のメモ帳を広げた。100均のボールペンで、瑞樹と似た感じの楕円を描く。
「A世界とB世界論、ですね」
「お前は言ったよな。お前の直感が捉えたほとんどの可能性で、羽場柊は志村瑞樹と結ばれていると」
「ええ。あなたを一目見た時、不覚にも胸がときめきました」
……俺にしずくという心に決めた女がいなかったら、たぶんやばかった。そういう笑みだった。だがこの俺はしずくのためのブランニュー羽場だから平気だった。
俺は珈琲をもう一杯注文した。甘すぎるそれを飲み干せなかったのに、性悪女はお代わりを頼む。ドリッパーが不快そうに眉根を寄せた。
「歴史の修正力は知っているな」
「もちろん」
俺はA世界の楕円を縦長に伸ばした。上の方に未来と付け加え、爪先を現在とした。
田代は飛行機の中で言っていたこと。内容の正誤に関わらず、そう考える人が多い内容こそ真実にすり替わる。
そして瑞樹の直感する事実。ほとんどの可能性で志村瑞樹と羽場柊が結ばれる。羽場柊が白崎しずくと恋仲へ陥りそうになっているのは、わかる限りではこの世界のみ。
それらを総合するとおのずから突き当たることだ。
「なるほど。つまりこの世界はエラーというわけですね。そして私はマクロファージと」
瑞樹は自らを白血球に例えた。
つまり、羽場柊と白崎しずくが結ばれるというイレギュラーに対し、歴史はささやかな抵抗を試みた。それが、本来この時期に実現するはずのない、羽場柊と志村瑞樹の邂逅である。
「ですが私はもう、例えばあなたから好意を打ち明けられても袖にしますが? こう見えても純愛志向なので」
「しずくを裏切る俺は解釈違いってか?」
「ええ。そもそもあなたの中身は本来の羽場柊ではありません」
世界が汚らしいから、せめて物語の中で美しいものを求めたということだろうか。思いのほか感情移入しそうになっている前の俺要素に気が付き、彼女に対する考察を打ち切った。それは他の俺がしてやればいい。
「ですが、それも失敗した。ではこの世界はある種の起点となったわけですね」
「起点?」
「ええ。羽場柊と志村瑞樹を結び付かせようという試みは失敗に終わりました。では、もうこの世界はまっさらなわけです。新しい一歩なわけですね」
それは前向きな内容ながら、どこか小馬鹿にするような口調だった。
「さあ? ただ、例えば誰かが少しだけ前向きになれるとか、あるいは──」
瑞樹は、最後の一口を飲み干した。
「収束した現象を塗り替えるための、嚆矢になるとか、でしょうか」
──例えば、羽場柊の死亡とか。
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