世界が愛で満ちればいいんですけどねぇ

 ダンボールニットの寝巻きにホテル内スリッパという着の身着のままの格好で、しずくが走り込んできた。ロビー内に響き渡る大声で一同の注目が集まる。


「その、その女ッ、その女ッ!」


 しずくは今にも噛みつきそうな勢いだった。

 敵愾心てきがいしんの塊たる闖入者ちんにゅうしゃを前にしても、志村瑞樹は涼しげな顔のまま微笑を湛えている。


 俺は立ち上がってしずくの方へ寄った。しずくは瞳に大粒の涙をたくわえながら、上下俺の身体をベタベタ触ってくる。


「しゅ、しゅーくんっ、あいつに触られてない? 変なことされてない? 除菌シート持ってきたから、呼気に触れた部分も全部拭くの手伝うからね……! あああと、あとあとあとね」

「ぷっ……」


 周章狼狽しゅうしょうろうばいするしずくを見て、女は噴き出した。


「……なんですか」

「いえ、すみません。失礼なのは重々承知で申し上げますが、ぷぷ、ぷぷっ、ひとが、必死になっているところを見ると、昔からなぜか笑えてしまって……! ふふふ、ふふっ」


「意味わからないこと言わないでください……」しずくは俺をどけて、ゆらゆらとした足取りで瑞樹の前に立つ。黒い髪が一房、肩口から前に垂れた。「なんなんですかあなた。しゅーくんに何の用なんですか……?」

「いえ、その方は本来私が結ばれる運命でしたので……つい」


 しずくは瞳孔を見開いた。俺はいつでも止められるように身構えながら、割って入った。


「しずく、相手にする必要はないから」

「恋人とはその人ですか? お名前は……おや、わかりませんね」


 ……え?


 志村瑞樹は想定外の反応を返した。


 先ほどの説明ならば、多くの可能性で共通している項目であるはずだ。


「わかりました」


 すると瑞樹は楽しげに手を叩いた。口元を抑えながら歯を見せないように、だが喜悦を抑えきれないように背中を曲げて笑いを堪えている。瞳にはもう涙すら滲んでいた。


 瑞樹は笑いを堪えながら、言う。


「あら……おやおや、あら。あらぁ……ふ、ふふ、あなたと、ぷ、ぷぷっ……羽場柊とのつながりがあまりにも希薄なので……ぐ、ふふっ、見えづらくなっていたようですね」

「希薄ってなんだよ。おら見ろ。クソ仲良いだろ俺としずく」


 俺の反駁はんばくは限りなく白々しい。さっきの瑞樹の説明が、脳内を駆けまわっているからだ。


 世界の重なり合わせの共通項の数だけ、瑞樹が『直感』できる情報は増していく。ならば、白崎しずくの名前がわからなかったのは。


 考えたくなかった。事実に制圧されている。


 しずくがそっと俺を押し退ける。


 垂れさがる前髪で瞳の色がうかがえない。俺は身構えた。どれだけ悪罵を叩きつけられようが、手を出した時点で世間はしずくの敵になる。


「……勝手に人のことを品評して勝ち誇らないでください。そういう風にしか人と関われないんですか?」

「はい。楽しいので」

「あなたみたいな人が、しゅーくんと関わって欲しくありません。金輪際彼に近づかないでください」


「あ、すこしずつ見えてきました。無理をして激高を抑えていますね」


 女は歌うように続ける。


 「粘着質で薄暗い背景を基幹とした人格形成……ですか。これは、まあ、典型的なミュンヒハウゼン症候群という精神疾患ですね。

 馬鹿や間抜けを気取って羽場柊から関心を向けてもらいたいという、そういう執着があなたの本質なのでしょう?」


「消えてください」これほどまでに低いしずくの声は聞いたことがなかった。

「それでいて、あぁ、なるほど。居丈高に構えている部分もあるようです」


「しずく。もういい」俺は割って入った。「相手にすんな。行くぞ」


 そうだ、別にこの女がいたところで何だというのだ。もう俺たちには関係のない人間のはず。極論、この先の人生で会う機会がなかったとしても困りはしない。


 だがしずくは俺の制止をしりぞけた。


 冷静になっているようで、かなり感情的になっているのがわかる。俺は幼馴染が爆発する前に手を引いてでもその場から離れようと試みるも、思ったより強い力で振り払われた。


 柳眉を逆立てるしずくの横顔が目に入った。


「わたしと柊君が、希薄ってなに……?」発音が、いつもの伸ばし気味の「しゅーくん」ではなかった。


「言葉通りの意味です」

「何でそういうことをあなたに言われなくちゃいけないの」

「少なくとも、この私は被害者だから、その意趣返しでしょうか」

「……一方的に言葉を投げかけておいて被害者面? ネットの終わってる人たちと何が違うの、あなた」

「本質的には同じでしょうね。だからせめてもの誠意として言い訳しないようにしています」


「しずく、もうやめろ。騒ぎになる」

「柊君は黙っててくれるかな……」

 こちらへ向けられたその目つきに、思わずぞっとしてしまった。

 しずくは志村瑞樹を見つめる。


「言うに事欠いて被害者面……? 妬み、嫉みの間違いだよね。聞いたよ、前世からのフィーリング? 笑わせないで欲しいな」

「ええ、妬みかもしれませんし、そうではないかもしれない」

「ニヤニヤと……右顧左眄うこさべんで逃げるな」

「難しい言葉を使って理論武装するのも、あなたの精神的な臆病さを反映した表れですね。だから本を読んでいるのではないですか? 議論で勝つため……ああ、あなたにはこっちの言葉の方が相応しいですかね」


 瑞樹はあくまで涼しげに言う。



「レスバトル」



 それは議論未満の言い合いを指すネットスラングだった。


 俺の脳裏に、これまでの記憶がよみがえる。しずくが時折り口にしていた特徴的な言葉の数々。その最たる事例。かつて俺とのLINEで『言語道断定期』というワードを抹消していた。


 俺が調べたのは言うまでもないだろう。あれはインターネットの匿名掲示板にて、地震が起こる度に貼り付けられる構文に対する、応答だ。


「驕り高ぶり」に対し「言語道断」。他にも中島が言っていた「すまんな」に対する「ええんやで」。


 入り浸っていないとわからない、そういう流れがある。


「だから屈辱極まりないですよ」

「何が……」

「そういう終わっている白崎しずくさんに、羽場柊さんを奪われてしまって。ああ、これがいわゆる脳破壊? ふふ」

「柊君はっ……!」しずくは大声を出しかけて、寸前で堪えた。「あなたのものじゃない」


 志村瑞樹はハンディバッグのジッパーを指で弄っていたが、やおら顔をあげてしずくを真正面から見据えた。口元の笑みが消えていた。


「あなたが羽場柊と結ばれるのなんて、この可能性だけなのに、何を言っているのやら」

「……は?」


「外部からの干渉でしょうか。でも掛けてもらった魔法がなかったら、あなた、たぶん、羽場柊から告白されてもうやむやにして逃げるんじゃないですか?

 そうして可哀想な自分に酔いながら、奪われた羽場柊を尻目に自慰行為に浸るしかできないんです。

 あなたはそういう人間だとお見受けしました」


 そして瑞樹は視線を俺へとスライドさせる。


 そこには珍しく感情があった。


 憐憫だった。


 この女は悪辣なことを言いながら、心の奥底から俺に同情しているみたいだった。


「だから、そういう女と付き合わなければならないこの羽場柊が、あるいはこの羽場柊が生み出されてしまった偶発的な経緯が、私は許せなかったんです。

 今ここで呼吸している人間のことを、夢小説のキャラクターか何かだと思っているのですか? 喜怒哀楽のある人間ですよ?」


「ざっけん」


 しずくが声を張り上げる。平手が持ち上げられる。俺は即座にしずくの手を掴んで止めた。そのまま後ろへやる。


「柊く」

「あら──」


 そして。


「もういいわお前」


 俺は、生まれて初めて女を殴った。


 ロビーが騒然となる。


 目を瞠ったホテルマンが何か連絡している。


 あれはどこの高校だと飛び交う声があった。


「あら、あらあら、ふふ、ふふふっ。殴られてしまいました」


 だが女は腫れた頬をさすりながら、今までで一番楽しそうな顔をしている。


 そこには子供のような無邪気さも、そして大人のような諦観もない。ただ年相応の興味関心で、殴られた己を俯瞰して楽しんでいた。


「殴られました。あら、これ、つまり否定する材料が暴力しかなかったということの証明になりますね」

「喋んなキチガイ」

「ああ、でも、ふふっ……ぷ、ぷぷぷっ、それはまあ私が悪いですねぇ! ええ、私が悪いです! ふ、ぷぷぷ……あんな、ぷぐっ、恋人……ああ、厳密には恋人前、ですねぇ……あひ、ひ、ぷ、ぷぷ、あんなこと言えばそれは殴られますよねぇ……ぷぷぷ……!」


 強がりでも何でもなく、口元を抑えながら女はケラケラと笑っていた。首筋から胸元にかけて震えている。腹の底から笑った際に見られる横隔膜の痙攣けいれんだ。


「しゅーくん……」


 しずくは冷静さを取り戻していた。人は自分より怒っている人を目の当たりにすると、落ち着くようにできている。


「あのさ」

「……なに?」

「インターネットでレスバトルしていようが、しずくの奇声も奇行も俺に構ってもらうための演技だろうが、関係ないから」


「あ……」

「俺はお前が好きだから。それは変わらないから。それにお前勇気出すって言ったじゃん。だから奪われた後とか、そういう妄言気にしないでいいから。あれすごく嬉しかったから」


 しずくは顔こそ赤らめたが、やがて気まずそうに目を背けるだけだった。


 それは奇声を発して大袈裟な反応をする普段の幼いしずくと比べて、やや年相応の反応のように思えた。


 やがて血相を変えた担任教師がやってきた。傍らには見覚えもない中年女性も控えている。恐らくは志村瑞樹の学校の教師だろう。


「いいえ、私が悪いのですよ。挑発したら、殴られました。ええ、ぷぐっ! と、ぷ、ふふ、と、当然です……! うふふ、ふふ、ふ……! ええ、事実を付きつけられれば人は傷付くんです……ぷ、ぷぷっ、それで怒って、ああでも、殴ったのは柊さんでしたね……じゃあ、あれですね、親しい人を貶されると人は怒るんですねぇ……ぷぷっ、ぷぷぷ。

 しずくさん、良かったですね! あなたは羽場柊から愛されていますよ! ふふ、ぷぷぷぷっ……!」


「志村さん、あなた……」


 教師に立たされて、志村瑞樹はホテル内医務室の方へ消えていった。


 高校二年生の頃の俺は、自転車とキャンプが趣味なうえに、軽い筋トレを週に何度か行っている。さらに男の腕力と女の身体だ。

 奥歯が飛ばなかったのは奇跡に近い。


 刑事裁判の可能性が頭にあったが、それでも視界が赤く染まって耐えられなかった。これほどの暴力性を露わにしたのは、前の俺が迎えた悪夢の日以来だった。


「羽場さん、あなたそんな……その、激怒するような人じゃなくて、もっと、落ち着いた……」


 担任はしどろもどろになりながら問いかけてくる。


 事情聴取だ、と思った。これから俺は事情聴取を受けて、沙汰が下される。まず俺は沖縄から埼玉まで戻されるだろうなと確信した。


 だが少なくともしずくは、被害者だということにせねばならない。


 また、田代や中島、水野たちだって修学旅行を楽しんでいる。


 それを俺一人の暴走で台無しにするわけにはいけない。


 羽場柊が勝手にやらかして、勝手に謹慎を食らう形に帰着させなくてはならなかった。


 俺は軽く深呼吸して、先生と向き合った。


「ぜんぶ説明します。行きましょう」

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