愚行録 ver.1st

 2

 恥の多い人生を送って来ました。

 でも、わたしはまだ裁かれていません。


 1


 人はみんな生まれながらに平等で、努力することで同じ地平に立つことができます。

 でも、そういうこと言う人は決まって両親が揃っていた。精神障害も発達障害も知的障害も身体障害とも無縁で、レズでもゲイでもなく、経済的な困窮もなく、思想の自由が保障され、平均近辺かそれ以上の知性が備わっている。


 ケーキを三等分できない人たちの存在が話題に挙がった時、それはただ事実を列挙しただけなのに、まるで自分の人権を侵害されたかのように怒り狂う人は相当数いたという。


 わたしの友達は本だけだった。だからわたしは世界の欺瞞にいち早く気付くことができた。


 パパはそんなわたしを頭がいいと褒めてくれた。年老いたソウセキは犬小屋の中で丸くなる時間が増えてきたけど、それでもわたしが近づくと尻尾を振りながら出てきてくれる。


 それだけが、10歳の白崎しずくの世界の全てだった。


 だから人間が正論を言うと逆上する生き物だと学ぶには、わたしの環境はあまりにも外的刺激が欠如していた。また、人間とは内容の正誤ではなく、誰が言うかで信じるか否定するかを変更する生き物だともわかっていなかった。


 平たく言うと、淫売の娘であるわたしは、暗に不幸な劣等人種であることを求められた。


「しずくちゃん。あのね、みんなに対して言っていいことと悪いことがあるの」


 担任の女は諭すようにそう言った。


「無視する、陰口は悪だと先生は言っていました。中島さんは被害者です。だからわたしはその悪を弾劾しようとしたんです。それは正しい行いであるはずなのに、どうして先生はわたしを咎めるんですか?」


 担任の女は哀れみと軽蔑と面倒くささをない交ぜにしたような表情を浮かべた。本人は隠していたつもりだろうが、わたしは何となくそれがわかった。


 通知簿にはこだわりの強い子ですと書かれ、勧められた心療内科でパズルや模型を組まされた。


 わたしにはそういうものは一つもなく、手帳や保証金が必要のない人間。他ならぬ国家機関からのお墨付きが下った折、担任の女は気まずそうな顔をして、特にパパと目を合わせようとしなくなった。


 思えばこの時から、人間のことが嫌いになったんだと思う。

 自由帳に担任の名前を書いて、それをカッターで切り刻んだりした。陰湿で、粘着質で、根に持つ、執念深い子供だった。


 わたしが庇った中島という生徒も、転校という形でいなくなっていった。


 わたしは嘘を吐くことを覚えた。真っ当に取り合わないことを学習した。真面目に相手をすればするほど、その人の望む答えから遠ざかる。みんな求めているのは事実じゃなくて、都合のいい甘やかな嘘なのだ。


 天狗になったわたしが滔々とうとうとそう述べる。


「それは悲しいよ、しずく」


 パパが初めてわたしに手を上げた。平手の痕を抑えながら嗚咽を堪えるわたしを、パパは優しく抱きしめる。


「しずく。確かにそうだ。でもな、向き合うべきことから逃げちゃいけない」

「……」

「嘘はいつしか大きくなって、そのとき一番大切なものを傷つけるんだ」


 パパは泣きそうになりながら、家族写真を見つめていた。そこには淫売が映っていた。


「でもね、パパ。嘘じゃないと人は傷付くよ」

「しずく。過去は元には戻らないんだ。時間が撒き戻っても、お前の中にある誰かを騙したという事実は消えない。それは前科だ。心の中の前科だ」

「……」

「俺もな、しずく。どうすればいいのかわからないよ」


 わたしは嘘を吐くことも吐かないことも怖くなったから、向き合うことをやめた。自分の世界が平和ならそれでいいやと思い込んで、なんとか自我の安定を保とうとした。


「羽場。お前罰ゲームで白崎に話しかけて来いよ」

「罰ゲームってなに。あいつ何かしたの」


 ある日、そういう会話があった。いつものことかと鼻で笑う。わたしは活字を追う作業へ戻った。


「白崎。何読んでんのお前」

「漫画」

「いや漫画じゃないだろどう見ても。なんでしょうもない嘘吐くの」

「関係ないよね」

「関係ないけどさ、罰ゲームでお前と話しなきゃいけないっぽいんだよ。お前何したの」

「……」

「何もしてないの」

「そうなんじゃない」

「ふぅん。趣味悪いな」

「なにが」

「いやお前じゃなくて、あいつら。クズじゃん、普通に」


 羽場は端的に言うと周囲の人間に関心が薄かった。

 自分のやりたいこと以外、あまり顧みないタイプ。


 問題児ではなかったが、いつも図書室で変な写真集ばかり眺めていた。その時は、なんだろう、ガンダムのプラモデルを1から作り上げるみたいなことに熱をあげていた。小学生なのに。


 わたしは羽場を気持ち悪いと感じた。

 普通じゃない人だ。


 周囲から後ろ指差されているのにも気付いているのか、いないのか。恐らくいるのだろう。それでも無視して平然としている。傍若無人な性格なのよ。羽場の母親はそう苦笑していた。


 その気持ち悪い男子は、翌日になってわたしにだけ構うようになった。


「ウイングガンダムゼロカスタムってのがあってさ。これ作りたいんだよな」

「だからなに。2000円くらいで買えばいいじゃん」

「それじゃ面白くないだろ。プラスチックの板を加工してさ、世界で一つだけのオリジナルのゼロカスを作るんだよ。最高だろ?」

「世界で一つだけ?」

「そうそう。自分だけのもの。お前だって本ばっか読んでんじゃん。そのスタイルは自分だけのものだろ」


 それを否定する権利は誰にもない。

 小学生のつたない語彙では表現しきれなかったようだが、平坦だがどこか熱量の宿った瞳は何よりも雄弁にそう語っていた。


「なんでわたしに構うの?」


 ある日、羽場に直接そう尋ねた。責め立てるような口調だったと思う。

 すると羽場は、あっけらかんと言った。


「あいつらと話してるより面白いから」


 ふぅんと思った。まあこいつなら、別に害はないかなと感じた。見たところ羽場も友人はそう多くはなさそうだったから、わたしに不快感を与える人が寄ってくる可能性も低そうだ。


 久々にパパが家にいた。

 わたしは羽場の話をすると、彼はしばらく無言になった後、まるでお代わりするか尋ねてくるかのようなテンションのまま、こう言った。


「……まだしばらく、引っ越すのはやめておくか?」

「……」

「しずくが望むんなら、パパはこのままここに住み続けてもいいぞ」

「でも」

「友達ができたんだろう。喜ばしいことじゃないか」


 それからしばらくは、羽場との会話に形容しがたい気恥ずかしさが伴うようになった。彼の眠そうな眼を見つめることが困難になった。


 パパのせいだ、と思った。


 ある遠足の日だった。それは隣の市まで出掛けるような、小学生にしては大規模な催しだった。


 わたしはどの班にも入れず、当然の帰結で先生と一緒になった。


 羽場は風邪を引いたらしくて欠席。作り笑顔を浮かべる先生を眺めていると、左わき腹に刺すような痛みが迸る。


 でもそんな痛みには誰も気付いてくれない。


 ふいにとある考えが出来する。


 点呼を取る担任の目を盗んで、わたしは天文台の雑木林の方へと姿を隠した。


 ほどなくして白崎と叫ぶ声が聞こえた。


 それが無性にうれしくて、わたしは更に森の奥深くへと姿を隠した。


 草木を踏みつぶす足音が近づいてきたものだから、わたしは頬を歪ませてそれらから逃げおおせた。


 しばらくすると、足音は全く聞こえなくなった。


 女児の体力で雑木林の奥深くに取り残される。

 季節は冬だ。ただでさえ短い日が紅に変わり、やがて藍色へと遷移すると、わたしはあっという間に歩行がままならくなった。木の幹に背中を預けて振るえるのが精いっぱい。まるで人間を怖がって、本を片手に丸まっている自分を揶揄しているかのようだった。


 パパも東京にいて不在で、担任の女も警察に丸投げして、身体の芯が凍えだして、そろそろ死ぬなと感じ始めた。


「あー……そっか。そういえば、そう、だったね」


 別にわたしがいなくなっても誰も困らないんだ。

 わたしはパパをあの家に縛り付ける桎梏しっこくなんだ。

 じゃあ生まれてこない方がよかったんじゃないか。


「単純なことだった」


 わたしは全身を這う寒気に抗うこともやめて、両手を伸ばして星空を眺めた。

 ここは市街地の明かりからかなり離れている。その甲斐あってか、普段は掻き消された恒星なんかも観測することができる。


 大きな光に阻まれて、何も言うことができない光。


「わたしだなぁ」


 数億年前の光はやがて消えるという。

 でもあれらの一つが消え失せたところで、誰も何も困らないだろうなぁ。



「白崎!」



 草木を掻き分ける音と共に、彼は近づいてきた。


 夜空には満点の星空が輝いていて、冬の大三角形と白鳥座がそびえている。羽場はしばしその広大さに見惚れたようだったが、すぐに思い直したようだ。ジャンパーをわたしにかぶせてくれると、すぐそこで拾った木の板と枝を必死に擦り付け始める。


「くっそ、ああもう、キャンプの知識とかねぇからわかんねぇよ……!」


 彼は必死に板に棒をこすりつけて火を起こそうとしてくれていた。


 でも素人の半可通で上手くいくはずもなく、煙こそ立ち上るものの、その先までは到達しない。


 彼はやがて大声を出した。喉が枯れても叫び続けた。


 大河原の天文台から住宅街まで二キロ以上離れている。ここは山間を切り開いた地帯なのだ。無謀な挑戦だった。わたしにジャンパーを託したことで、彼も凍死の危険性がある。


「震えてんじゃんお前さ……!」


 彼は苛立たしげに言うと、強引にわたしを抱き寄せる。まだ胸筋のない薄い胸板の先で、幼い拍動が直に耳小骨を揺らした。彼の体温よりも、何よりもそれが熱かった。


「はねば……?」

「うるせぇ。喋んな」

「なんで」

「あ?」

「わたしは死んだ方がいいのに」

「俺はどうでもいいけどお袋と親父まで巻き込んでんだぞお前。お前ん家連絡着かねぇし。それなのにわたしは死んだ方がいいとか、あ? 人のこと舐めんのも大概にしろよ」


 羽場は舌打ち混じりにそれだけ言うと、今度はさっきよりも強い力でわたしのことを抱き寄せた。嗚咽が零れた。羽場はまたイライラし出したが、今度は厳しく譴責することはなかった。


「しゅーう!!! しゅう!! 聞こえた! 聞こえたわあなた!」

「しゅう! どこだ! しゅう!」


 懐中電灯の音と共に、二つの足音が近づいてくる。

 光をあてられると、それすら温もりに感じられた。


 警察の服装を来た人たちも同時に近づいて来て、わたしはぱっと照らし出される。それは人生で初めて、たくさんの注目を集めた瞬間でもあった。


 2


 羽場と、羽場さんと、羽場さんは、わたしが待っているとやって来てくれた。

 でも、わたしは自らの傲慢さと臆病さを故に、パパも、二つの懐中電灯も、抱き締めてくれた温もりも、ぜんぶに嘘をついてしまうんだ。


「わかった。お父さん、立派なお仕事だもの。仕方ないわ。だからお父さんがいない間はうちにいてもいい。私のことをお母さんだって思ってもいいからね」

「でも、柊君に、迷惑をかけて。風邪引いてたのに」

「連絡網で行方不明って周ってきて、もう言うこと聞かなかったの。自転車上手く乗れないくせに必死になって漕いで……」

「……」

「しずくちゃん。あんな馬鹿な子だけど、よかったら、仲良くしてあげてね」


 あるいは待っていると手を差し出されたことが、わたしの傲慢さにつながったのだとしたら、白崎しずくという生き物はつくづく救いようがない。


『彼女』はわたしの死を願っている。はっきりとそう告げられた。わたしと羽場柊にはもう関わらないでくれと、極めて暴力的な言葉の限りを尽くしていた。


 ねえ。


 今のわたし、どんな顔してあの人たちに会えばいいのかな。


 あと2回しかないけど、どうすればいいのかな。


「前回で、高砂さんは言ってたんだよね。君は耐え続けていると、いつか誰かが助けに来てくれると思い込んでいた。だから踏み出すことができなかったんだって」


 前の、前。

 だが高砂先生が診たのは柊君だった。

 それは。


「次の接触は、たぶん、修学旅行くらいだね。そこで編集した動画送りなよ。理研には申請送ってるから、たぶん通るよ。警視庁の警視の親族だもん」


「……でも、それは」


「いいんだよ」彼女は珈琲を飲み干して笑った。普段研究所で飲んでいるものと比べたら、一般企業勤務のわたしが用意できるランクなんて限られている。


「やっぱ下手の横好きだよね。読み専だわ。自分で書こうとすると、自分でお節介焼こうとするとさ、こう、変になるんだから。あいつ想像以上にナイーブだったのにね」


「……」


「『あれ』は情報送るだけ。なんであんたが戻ったのかもわかんないし、たぶんそれは永久に解明されない。再現性がないから。

 もう変えられない。これからの人生、前向きに生きていくためにも、向き合わないと」


 そうでしょ? その人は、あたかも自分の所業も悔いるようだった。唇を噛み千切らんばかりにして、絞り出すように言った。


「……そうでしょ、しずくん」

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