善行録

 設営してからはよりアクティブに行動した。


 キャンプ場に併設されている雑木林で乾燥した枝や松ぼっくりを拾い集める。


 松は松脂まつやにと呼ばれる油を多分に含んでいるため、着火剤として機能するのだ。俺がやたら松ぼっくりにこだわっていたのはこれが理由だった。


 ついでに手頃な石も拾ってから、目皿の上にストーンサークルのミニチュア版みたく並べる。


 中央に先ほどの薪代わり達をくべていき、中央のちょうど風通しの良い部分に着火剤の松ぼっくりを供物みたく添えた。



 ちょうどその時分になると、稜線の向こうから藍色の夜が広がって来ているようだった。いい塩梅だ。


「しずく、飯にしようぜ」

「あ、待って待ってわたし作るから」

「いいよ。レトルトだから。たまには俺にやらせてくれ」

「あ、ぅ」

「どうした」

「なんか、いまの、疲れてるときに家事代わってくれる旦那さんみたいだった……」

「誰にも似てない夢の背中を! 追いかけて追いかけてく!」


 俺は大声でアニソンを歌った。「ひゃっ、奇声病がうつっちゃった」などと分析されていたが知らない。認識しなければ存在しないのと同じだ。


 正気に戻った俺は手頃な枝に火を灯して、松明みたいなそれを入れる。しずくの顔をうすぼんやりと浮かび上がらせるような、優しい火種が起こった。


「ふぃぃー……」


 しずくは目を細めて簡易暖炉にあたっていた。


 俺は寒くならないように彼女にいくつか携帯用カイロを渡す。ぬくぬくの固有結界を展開したしずくは、とても他人様には見せられない顔をしていた。


「明日から修学旅行だねぇ」


 しずくはインスタントコーヒーを飲みながら切り出した。


「沖縄だったよな。サーターアンダギーとソーキそば、ちんすこうにゴーヤチャンプル」

「えへへぇ、あとは海ブドウだねぇ……」


 あれ味しないじゃん。


「あ、あとね、なんか他の学校と混じってレクリエーションやるんだって」

「ああ、言ってたな。でもキャンプファイアーだし、大したことしないだろ」

「あ、あのね。フォークダンスあるんだ……それで、あの」

「俺がやろう。俺でいいな。俺にしてくれ」

「先に言わないでよぉ……もう、先取りして話の腰折って……」


 ぽかぽかとしずくパンチレベル1をお見舞いしてくる幼馴染。残念ながらそよ風相当のダメージしか与えられない。


 じゃっかん食い気味でキモかった俺の申し出を断られなかったことが、もう本当に脳みそが膨張して耳から出てきそうなほど嬉しかった。比喩表現がよくわからないことになるくらい嬉しかった。


 とはいえ色々な規制を叫ばれて久しい現代だ。

 2000年代のギャルゲーみたいな甘酸っぱいイベントにはなることはないだろう。俺の記憶になかったということはシケたイベントだったということだ。


 任せろ相棒。お前がシケたイベントとしか思えなかったフォークダンスは、俺が黄金の記憶へと塗り替えてやる。




 夕食も終えると、受付の近くに併設されたコテージの設備を貸してもらった。そこでシャワーと歯磨きを済ませる。


 俺は別に平気だったが、女の子であるしずくにばっちぃ思いをさせたくない。

 後は好きな女の子の前にいるのに歯磨きをしないでいるという愚行に耐えきれないのも大きかった。


 髪を乾かしたしずくが出てくる。

 風呂上がりのボディソープの匂いで羽場柊の羽場が柊しかかったが、俺はブランニュー羽場なので平気だった。


「泊まれるんだね、ここ」

「んっ、んん!」

「たんからまっちゃった? 大丈夫?」

「気にするな。話戻すけど、俺らがやってるのはグランピングって言って、まあ平たく言えば泊まりのキャンプだ」


 中には一朝一夕で設営できないような本格的なテントも用意してくれるところもある。


「さむっ……」


 コテージの外へ出たしずくは身を震わせる。そろそろ夜間の気温も10度を下回り始め、深夜の最低気温は2度まで達したことがあった。


「テントの中は意外とあったかいから。戻ろう」

「うう……しゃむいいいい……歯磨きしたのに、また珈琲とか飲んじゃう……」

「一日くらいならいいだろ」

「しゅーくんはわたしの歯が黄ばんでてもいいの?」

「安心しろ」

「しゅーくん……!」

「ホワイトニング代は出してやる」

「しゅーくん……」


 多少味気ないが白湯でも作ってやるとしよう。

 しずくに指摘された通り、俺はテンパると異様に水を飲みたがる習性がある。故に常に天然水を何本かストックしている変態だ。


 俺は折り畳みケトルを展開すると、そこに水を注いで火にかけた。



 月が陰っている夜だ。そういう日は、星のまたたきがより一層その存在感を強くする。


 千切れた雲が薄闇にまぎれて気ままに流れていく中で、しずくの吐く息が白く染まっていた。


「あの日もさ、こんな夜だったよね」

「かもな」


 白崎しずくが羽場家に入り浸るようになった端緒とも言える事件。

 白崎父からしずくを託された契機となった事件でもある。


「湯、湧いたぞ」

「あ、ありがと……あち、あち」

「そう簡単には冷えないから。ゆっくり少しずつ飲め。急に体温上がったたら気持ち悪くなる」

「うん……」


 しずくは両手でマグカップを握りしめると、ちびちびとすするように飲んだ。小動物みたいだと、もう何回思ったんだろう。


「……」


 もう確定でいいのではないか。


 白崎しずくは寝取られはしない。


 何がきっかけになったのかは定かではないが、少なくともこの俺は、悪夢の12月24日を迎えることはないのではないか。

 根拠はないが、そういう確信めいたものがあった。


「しずく」

「うん? どうしたのしゅーくん」

「お前急に積極的になったのって、なんで?」

「ふぇ? あっつ!」

「うわやばっ! おい水あるから冷やせ冷やせ!」


 動揺したしずくが跳ねるものだから、白湯が手のひらにかかってしまった。


 俺は取り合えず使っていないスキレットに水を注ぎ、奇麗なタオルに水をしみ込ませた。

 気温が低いのも手伝って簡易的な保冷剤はできたはずだ。


「あぅ……ごめん。ちょっとびっくりしちゃって……」

「しずくは悪くない。急にあんなこと言った俺に責任がある。ごめんな」

「そんな酷くないから、かしまって謝らなくてもいいよ。わたしがヘタレなのがいけないんだし……」


 しょんぼりしてしまうしずく。

 だがこのままでは水ぶくれになる可能性がある。コテージには冷蔵庫があったので、そこで何個か保冷剤を拝借してこよう。


 その旨を説明して走り出そうとしたが、


「ま、待ってしゅーくん……!」

「いやだってな」

「ほんとにそんな酷くないから。心配しすぎだよ」


 健気に笑って手の平をひらひらとさせている。俺は上げかけた腰を再び降ろした。


「本当に痛くなったら無理しないで言えよ。やせ我慢してたら怒るからな」

「ふふ、ふ、ぷ、ぷぷっ……。しゅーくんお母さんみたい……!」

「あんさ、結構真剣に言ってるんだが」


 俺がすこし声を低くしても、しずくはからからと楽しげに笑っている。隠し事が本当に苦手な幼馴染だ。斜め上に逃げ道を設けてもいないみたいだから、本当に俺が心配し過ぎなだけであるようだ。


「あのね。行かないで欲しかったんだ」

「行かないでって」

「一人にしないで欲しかった」


 思い出しそうになるから。


 声にはならなかったが、唇の動きがそう言っている。


 俺は小さく息を吐いた。ぱちぱちと燃え上がる火の粉が、俺たちの周りだけおぼろげに照らし出している。


「しゅーくんはあったかいね。えへ、いつも、しゅーくんはあったかいやぁ……」

「えなに、お前死ぬの」

「しゅーくん置いて逝ったりなんかしないよぉ」


 意趣返しが好きな女だ。執念深い一面。我知らずの内に笑っている俺に気付いた。


「急になんかラストシーンみたいなこと言うから」

「むふ、不安になっちゃったかな」

「なった」

「あ、素直だ……」


 俺はなんとなく、今なら言ってもいいかなと、そう考えていた。鼻がツンと熱い。


「あんさ。俺さ、いや、俺じゃないかもしれないけど。お前のこと喪う……みたいな、夢みたいな、幻覚みたいな、そういう目に遭ったことがあって」


 しずくは黙っている。


 マグカップを手に取って、ちょっぴり白湯を飲んだ。


 白い喉が小さく上下した。


 俺も水を飲みたかったが、しずくの手を冷やすのに使ってしまったことに気が付いた。


「……で、あの、いなくならいで欲しいっていうか。俺の近くから」


 しずくはただ黙って俺の方を見ていた。

 その瞳の奥に宿っている喜怒哀楽はいつも激しすぎるくらいなのに、こういう時に限ってどこまでも落ち着き払っているのだから始末に負えない。


「泣いていいよ。しゅーくん」

「泣いてないが」

「あのねあのね」

「なんだよ……」


「他のわたしがしゅーくんにどれだけ酷いこといっぱいしても、わたしはここにいるからね。しゅーくんの傍にずっといるから」


 ────あ。


 しずくは俺を抱き締めた。


 頭に温もりが往復する。


 雑にトリートメントしかケアしていない俺の髪が、しずくの指と指の間をすり抜けていく。


 どうして鼻水が垂れるのだろう。 


 朝に検温したら平熱もいいところだったのに。嗚咽が堪えきれない。


 親父から、古来より男はどんと構えているものだと教わっていたし、俺は常にしずくに頼ってもらえるよう、落ち着き払った大人のように振舞っていた。


 でもしずくは俺のことを離そうとしない。


 左耳から伝わってくる彼女の拍動は、いつか俺が例えたように焚火のリズムと似ていて。


「しずく」

「どしたの、しゅーくん」


「好きだ」


 それは、誰だって、10人いたら10人がそう判断するほど、完膚なきまでの涙声だった。


 かっこわりぃ。


「……」

「しず、く……?」

「あぅ」


 俺のすがるような声に応えたのは言葉じゃなかった。


「あ、あぅ、あぅ、う、ぅぅ、ぅぅぅぅぅ~……! ううううううううううあああ……」


 しずくの鼻先の感触が頭頂部に伝わる。


 何が焚火のリズムだ。こんなもんもはやデスメタルバンドのドラムでしかない。荒すぎる呼吸は頭上で台風が発生しているみたいだし、合間に混ざるうめき声なんてムードもへったくれもなかった。


「しゅ、しゅ、しゅ、くん、あのっ、あ、ああああ、あの、あ、わたし、わた、わた」

「お、落ち着け。大丈夫だから。深呼吸しよう」

「は、は、ひ、ひっひっ、ふー……。ひ、ひ、ふー……はっはっはっはっはっはっ……!」

「なんでラマーズ呼吸法なんだよ……」


 焦っている人を目の当たりにすると逆に落ち着くという俗説はマジだったようで、俺は──少なくとも表面上は──平静を保つことに成功していた。


 やがてしずくは俺を離してくれる。


 つぶらな瞳も、白い肌も、子供っぽく整った目鼻立ちも、薄い唇も、境界線をぶっ壊して赤色に染まってしまっているのような有様だった。


「ゆ、勇気、出すから」

「昼聞いたけど、いまじゃダメか」


「あ、あの。待って。待ってね。あのね。あの、わたし、しゅーくんの正体、たぶん知ってて」


 俺の正体? 瞳孔が開くのって自分でもわかるものなのだと、初めて知った。


「でも、でもね。わたしが、わたしが、ヘタレだったから、いけなくてね。わたしが、臆病だったからいけなくてね。それが全部の元凶でね」


「しずく……?」


「でもでもでも、でもねっ! わたし、しゅーくんのスマホにずっとGPS仕込んで行動監視してたりするから、あの、しゅーくん、本当はわたし以外の誰とも話して欲しくなくてっ、しゅーくんがおばさんと話すのすらちょっと嫌で」


「わ、わかったから。落ち着け。な?」


「わたしも、わたしもぉ……!」


 今度はしずくが泣き出しながら、絞り出すように言った。



「ちゃんと、わたしから……ゆうきだして、しゅーくんにすきっていうからぁ……!」



 しずくの瞳から大粒の雫が零れる。


「しずく」


 俺やっぱりこいつのこと好きだなぁと思った。


「なに、なんだよぉ……もう……」

「いまの好きって言ったようなもんじゃん……」

「ううううううるさいんだよおおおおおおおおあああああああああああああ」


 俺が指摘するとしずくは半狂乱になった。


 もうそれは尋常じゃなかった。


 具体的に言えば寝袋に頭だけ突っ込んで、もはや絶叫しながらテントの中を縦横無尽に転げまわった。





「……ごめんなさい。めちゃくちゃ取り乱しました」

「いや、いい。急に言うって反省した直後にあれだから。非は全面的に俺にある」


 しずくはまたしても白湯をちびちびと飲みながら首をひっこめた。亀になろうとしても、俺からすればただただ愛おしいだけである。


「あのね」

「うん」

「恋人になるの、まだちょっとだけ待って欲しいな」

「……それは、しずくから言いたいからか?」

「うん……。それとね、わたしはしゅーくんに、渡さなくちゃいけないデータがあるの」


 渡さなくちゃいけないデータ。俺はなぜだか、形式不明で再生できないあのAVの存在を思い出した。


「修学旅行の二日目の夜。キャンプファイアーのあとまでに」


 しずくは今にも発狂しそうな赤面をしながらも、逃げずに、俺と目を合わせてくれた。


「しゅーくんのこと好きって、わたしから言うから」


 なあ。


 なんで抱き締めちゃいけないんだ?


 なあ。


 なんでキスしちゃいけないんだ?


 そういうもどかしさがわだかまっているのを感じながらも、それをどこか心地いいとしている自分がいることが不思議だった。

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