またしゅーくんが夜に外出してる

「ふぃぃぃぁぁぁぁ~……」


 お風呂入りすぎちゃった。


 わたしは全身を伸ばすけど、パパと同じみたいに身体がボキボキ鳴ったりしない。こういうことをやると柊君は「おっさんくさい」って顔をしかめたりする。でも白崎家には父しかいないから、女の子っぽさは少女漫画からしか得られない。


「……二重スリット実験かぁ」


 もう内容はあやふやになりつつある。柊君がやって来て今日話した内容を説明してみろと命じられたらなす術なく撃沈してしまうだろう。


 ただ、過去も未来も変えることはできない──そういう柊君の推察は、少なからずわたしの心に後味の良くないものを残した。


「……」


『奴』に同情の余地なんてない。被害者面も、悲劇のヒロイン面も、おしなべて醜悪なだけだ。未練がましくわたしにすがってきたのだって反吐が出る。


 わたしはお前が自己投影して気持ちよくなるための人形じゃない。


 パパは、向き合うべきものと向き合わないのは罪と言っていた。


 目の前に鈍器があったのなら、わたしは撲殺していたかもしれない。

 これほど激しい怒りを抱いたのは、中学生の頃、身の程を弁えずに柊君のことが好きと恋愛相談を持ち掛けられたとき以来だった。


 わたしは気分転換に匿名掲示板でもやろうと考え、愛用のノートパソコンを立ち上げる。デスクトップの右上。1つのZIPファイルが転がっていた。


「こんなもの渡されてもなぁ」


『奴』曰く、わたしたちにまつわる問題の全て、そのファイルが握っているらしい。


 だが即座に、柊君へこれを託すのは良くない、とも言っていた。


 それは、わたしの誠実さを示す証拠になる。そう言っていた。


 彼はたくさん傷つけられた、らしい。だから好意を受け入れたように見えて、信じ切れていないそうだ。


 わたしがこの「傷つけられた」という言い方に、酷い不快感を抱いた。この言い回しだけで本性が透けて見える気がして、わたしはこうはならないよう強く肝に銘じた。


『奴』は今現在置かれている自分の身の上を多くは語らなかったが、わたしがどう振る舞えばいいのかについては熟知していた。


 まるで柊君がこっそり書いていた、ちょっぴり恥ずかしいノートみたく、自分が仕出かしたことを何度となく振り返ったのだろう。


「……志村瑞樹、かぁ」


 柊君のノートに、こっそりと書いてあった名前。なぜかわたしとカップリングするみたいに、ボールペンで何度も囲まれていた。


 誰だろう。知らないよそんな人。


 だが『奴』は知っていたのだから、きっとこれから知る人物なんだろう。


『奴』がその名を口にする時、文体はほんのわずかだが攻撃性を帯びる。

 そこには志村瑞樹へ向けるべき感情が端的に表されていた。わたしは分からないが、あるいは時が来たらわたしも共感できるようになるのかもしれない。



「……Super Deep Fake、かぁ」



 更新日2031/07/12。エラーを起こさないのは奇跡に近い。



 それがどうわたしの誠実さを証明するというのだろう。


 っていうかそれは貴様の所業だ。わたしと同一視されるのは憤懣やるかたなかった。


「だって迎えに来てくれたのはしゅーくんだけだったもん……」


 わたしは羽場柊以外に興味なんかない。


 中島さんもわたしの相手とか色々見繕ってきたときも不快だったなぁ。ああいうところさえなければ良いんだけどなぁ。


「あ、しゅーくんお家出た。どこ行くのかな。ああ、このルートならコンビニかぁ。どうせまたオレオ食べるんだろうなぁ、もうー。今週3回目だよ。なんで太らないの? いや多分30越えた辺りからドカッてくるタイプだ……うう、しゅーくん。あれ、徒歩じゃなくて自転車だね。昨日徒歩だったのに。気分かな。アルバイト終わりだったから疲れてたのかなぁ。んー、寒いから風邪引かないで欲しいけど……マフラーでも編んだ方がいいのかな。いやいや、わたしがやったら大事故になる……! 素直に既製品買うのが吉……! しゅーくん上着着たのかなあ。いつものアウトドア屋さんのコートじゃなくなってたから、じゃあブランドものに寄ったんだよね。隣町のブティックのブランシュヴェール。しゅーくんと話した店員女の人だったらやだなぁ。でも男でもそれはそれでやだなぁ……」


 わたしはGPS信号を追いながら、風邪引いちゃったらおかゆでも作ったほうがいいのかなぁとか思案した。


 専門板にはこういうの詳しい人が結構いる。規制しろっていう外部の声に対して、全面的に否定しきれないのが当事者的には痛いところだ。


 でも最近の柊君はちょっと大人になっちゃったから、照れないで、笑顔でありがとうってお礼言ってくれるのかなぁとも期待した。


 柊君。

 柊君。

 わたしの柊君。


『奴』が言った言葉の中で、唯一同調できる点が一つだけある。


「わかってるよぉ。わたしが自分の殻の中でうじうじしてる、気持ち悪い意気地なしの女だっていうのはさぁ……」


 中島さんにも似たようなことを言われてしまった。柊君もきっとわたしのことをヘタレとか考えているし、なまじ正鵠せいこくを射ている故に反論さえできない。


「う、うう……だってだって、世論や風潮からして男の子から告白するものだし……」


 今日もわたしは言い訳を一つ積み重ねる。

 本質的には変わらないと自己嫌悪が膨らんだ。





 俺はコートのボタンを上まで閉めた。


「さっむ……」


 もう11月だ。来週から期末テスト。その後、土日を経ると修学旅行という強行軍のようなスケジュール。どうにかならなかったのかと思う。


 自転車を漕ぎながらそれとなく白崎家の前を通る。しずくの部屋は明かりが灯っていた。


「何してんのかな」


 ほっとレモンでも差し入れしてやろうかと思ったが、やめた。流石に夜の11時にジュース片手に女子の家へ特攻は奇行が過ぎる。幼馴染だからって何もかも許されるわけじゃない。


「あれ、あ、お久しぶりです」

「ん? ああ、柊君か。男前になったな」


 その男は四角い顔を綻ばせて言った。相変わらず、お世辞の種類が少ない人だ。


「どちらへ? 私服ですし、俺と同じコンビニですか?」

「ああ。ちょっと飲みたくなってね。つまみを買って来ていた。家で飲むのは久しぶりだ」

「……なんかあったんですか」

「いや、今日は元妻との結婚記念日だ」

「申し訳ありませんでした」


「気にしないでいいよ。今日も、娘に勉強してやってくれてたんだろう? はは、柊君も文系科目は娘に聞くと良いよ。柊君に優位が取れると、喜んで教えたがるだろう」


 何となくその光景が目に浮かんで、俺ははにかんだ。


 俺はそれから数分話して、警視庁勤務の警察官と別れた。彼は俺が曲がり角で見えなくなるまで、じっと背中を見ていてくれた。


 東京からここまで、少なくとも片道数時間は掛かる。彼の住処は専らマンスリーホテルだった。


 だからしずくは家事を好んだ。



 しずくの母親は、ささやかな悪意と共に淫売と呼ばれた。

 しずくの父親は、大袈裟で薄っぺらい同情と共に、娘想いの立派な父親と呼ばれた。



 しずくは顔立ちや性格が父親寄りであることを喜んでいた。何故ならそれは、自分に通う血の濃度が父親の方が高いことの他ならぬ証明だったからだ。


 しずくの母親が何をしているのか、不幸なのか幸せなのか、誰も知らない。白崎家の親族は話に彼女の気配がわずかでも滲むと、戦闘機を急旋回させるように唐突に話頭を改めるからだ。


 一度、身なりをかなり崩した女が菓子折りを片手に経済的な支援を求めてやってきたらしいが、白崎家の人間はありったけの罵声と塩とを投げつけるだけだった。女は一人だった。傍らに男の姿はなかった。出来心だと女は哀願した。出来心で人を傷つけていいのか、お前は性欲で幼い娘の人生をも狂わせた。


 白崎家は正論を掲げて女を両断した。女はそれから見なくなった。


 白崎家の父親は、ストレスと共に罵詈雑言を吐き出す親族を見ても何も言わなかった。ただしずくを抱き締めていたらしい。



 小学生だった白崎しずくの話をしよう。


 彼女は教室の隅で読書ばかりしている少女だったというのは、かつて説明した通り。


 それは白崎しずくという少女がどこか超然とした性格をしていたことも一因だったが、何より、親同士で築かれる結束が、しずくを大多数からつまはじきにしていたというのが正確だ。


 子供の価値観の大部分は、親から与えられるもので構成される。


キリシタンの娘はキリシタンになることが多い。


そういうことだった。


 しずくが母親にまるで似ていなくても、世間は理屈や道理など意味を持たなかった。避けなければならないから避けた。避けることこそが行為の本質だった。


 人間は感情に理屈を後付けする生き物だ。

 仕方ない。


 感情を制御できるのであれば、世の中に過ちなど起こらない。諦めて納得して生きていくしかない。


 しずくの中の鬱積が爆発するのは、とある寒い冬の日。小学校が遠足へ出掛けた時のことだ。


 でもそうなるのはちょっと考えれば誰でもわかったはずなのに、誰もしずくに構おうとしなかった。


 しずくは俺に意識してもらいたいから世話を焼くと説明した。欣喜雀躍して喜びたい。


「ただ」


 あるいは、そういう世界にいたからこそ、幼いしずくは俺に執着し続けたのかもしれなかった。

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