しゅーくん好きな話する時だけ口数多くなるよね

「なあしずく」

「どうしたの?」

「お前志村瑞樹って知ってる?」

「え、だれ、そのひと」

「知らないならいいんだ」


 俺はひそかな安堵を抱いていたが、目の前の幼馴染に気取られぬように変顔をした。しずくは怪訝な目で俺を見た後、教科書に戻った。


「しゅーくん」

「はい」

「わからない」

「どこがだ」

「意味がわからないよ。粒は粒じゃないの? 波になるなら波なんじゃないのかな」


 しずくはプリントの一角を指差した。そこには点や斑模様の図形が整然と並べられている。


 二重スリット実験だ。

 物理学の範囲というより中島さんお得意の量子力学の領分になってくるが、物理教師のSF趣味ゆえに無理くり出題されることになった。


「なんだろう。めっちゃざっくり言うと、量子や電子は誰かが見てると別物になる。見るの止めると元に戻る」


「……? え? なにが?」

「あー……何て言うかな。まあいいや。最初から説明するわ」


 俺は適当なルーズリーフを引っ張ってくると、そこにフリーハンドで四角形の箱を書いた。


 そして四角形の中央に線を引き、中央線の一か所を消しゴムで消す。


「この消したとこ。ここが隙間だ。今から隙間の手前に電子を配置し、向こう側の壁目がけて発射する」

「う、うん」

「そうしたら壁にはどんな痕が残る?」


「うーん、電子の形をした痕が残る……よね?」

「ああ。じゃあ今度は隙間を二つにしてみるか」


 中央線のもう片側も消す。

 四角形の中央線に2つの穴が空いた構造体が出来上がった。


「さっきと同じように、もう片方の隙間の手前から電子を発射する。するとどうなると思う?」

「え? うーん……二か所に電子の痕が残るんじゃないかなぁ」


「残念。まだらな模様になる」


 俺はプリントに記載されているまだらな模様の図解をペン先で示した。しずくは何故か俺の服の裾を握ってきた。なんでだ。


「ごめん。ごめんね。他の模様はどこから来たの?」

「そりゃ発射された電子だよ」


「え、でも、変化球とかじゃないわけだよね。電子を投げてる人がダルビッシュ有じゃないんだよね」


 何だよその例え。


「ああ。これな、2か所から発射された電子が反射することでまだら模様になるんだ」

「ええ……? でもでも、電子は2箇所からしか発射されてないよ?」

「電子は粒でもあり波でもあるからな」


 本当は粒子性やら波動性の転嫁によって干渉が発生した結果、波の干渉パターンが発生する(うろ覚え)……みたいな原理があるのだが、詳しく追求していくとボロが出そうなので黙っておいた。


 しずくは大きな瞳をパチクリさせた後、左右に小首を傾げて、俺を見上げたと思ったらまた図形を睨んで、また俺を見上げて、再度首を捻った。


「は?」

「うん。俺もは? って思う。でも仕方ないんだ。電子は粒でもあり波でもあるのは証明されちゃったんだ」

「誰に?」

「ヤングさん」

「ヤングさん意地悪だよ」


 トーマス・ヤングさんもまさか、100年越しに文系女子高生から意地悪呼ばわりされるとは夢にも思わなかっただろう。


 ぷぅと頬を膨らますしずく。

 しずくの家に昔いた犬を思い出しながら頭を撫でてやると、あろうことか奴は心地よさそうに喉を鳴らした。人間じゃなかったのかもしれない。抱き締めても許されるんじゃないかなぁと思ったが、階下にいるお袋のことを考えてやめた。


「わかった。これで物理100点だね。おしまい。しゅーくんありがとね!」


「眩しい笑顔で俺がキュンとときめいたところ悪いんだが、この話には続きがある」


「え? なんかよくわからないけど電子は粒でもあり波でもあるんだよね? おしまいじゃないの? え? キュンとときめいた? え?」

「そうなんだ。二箇所から発射すると波の性質で干渉し、まだらになることは理解したな?」

「うん。ところでしゅーくんがときめいた話なんだけど」

「今度にしような。続けるぞ」


 俺は手のひらをルーズリーフの上にかざし、構造体を覆い隠した。


 しずくは引きつった笑みのまま、気味悪そうにそれを眺めていた。どんだけ理系嫌いなんだよ。お前が古文嫌いなくらいだよ。そっか、じゃあしゃーねぇなぁ。


「俺たちはこれで箱の中を見ることはできないな」


「え、えぇ……? そうかな、そうかも……」


「話進まないから見えないってことにしておく。

 で、だ。この状態で再度、二箇所から電子の発射を行った。向こうの壁にはどういう痕跡が残ると思う?」


「もしかして……」


 ピンと来たようだ。俺の袖を握る拳にぎゅっと力が込められた。


「ああ。この状態だったら、最初にしずくが言った通り、隙間の正面に電子が衝突した痕が出来た。

 この図みたいな、二本の直線だな」


 俺はペン先でプリントの図形を囲んだ。

のたくったような縦の点字が二本、並んでいる。


 ルーズリーフから手を退けて、しずくを撫でてやった。

幼馴染は気持ちよさそうに目を細める。


「しゅ、しゅーくん、スキンシップはげしいよぉ……えへ、えへ」


「見てくれしずく。いま、ルーズリーフは隠れていないな。つまり俺たちは箱のなかを観測することができる」


「んぅ? んー……」


 現実に引き戻されたように表情を引き締めるしずく。

 俺はシャーペンを手に取ると、向こう側の壁に5つの波線を引いた。


「この状態だとまたまだら模様が観測される」

「へっ……え、なんで? わたしたちが見てるのと見ていないのとで結果変わるの?」


「変わる」


 しずくは両手で紙片をつかみ取ると、目を皿のようにして構造体を眺めた。そして三度小首をかしげると、助けを求めるように俺を見てくる。罪悪感が湧いた。


「どうしてそうなるのかな……」

「わからん」

「わからないんだ」


「みんな面突き合わせて考えてるらしいけど、わかんないんだよ。なにゆえ観測者の有無で粒子性と波動性を行き来するのか解明されていない」


 しずくは半分口を開けたまま、10秒間くらいその構造体の波模様を眺めていた。


 電子が二つの性質を同時に有するという証明。この状態を「量子の重ね合わせ」と言う。


 またこの状態を分かりやすく説明した実験こそ、かの「シュレディンガーの猫」だ。


 箱の中の猫は無事なのか否かが外部の観測で確定することを、観測によって振舞い方を確定させる量子と関連付けた。


 そしてこうして複数が並列する可能性の世界が、観測されることによって収束されることを、「コペンハーゲン解釈」と言う。



 例えば俺はこれからコーラを買いに行くこともできるし、このまましずくと古文の勉強へシフトしてもいい。


 そして俺が古文から逃げてコーラを買いに行くことで、「コーラを買いに行った世界」へと可能性は収束する。



 その羽場柊は結果として「古文の勉強をしなかった」わけなので、「古文の勉強をした俺」という可能性は消失するのだ。


 その消失というニュアンスは、インターネットのリンク切れと理解すれば分かりやすいかもしれない。



「でもでも、もしかしたら色々なパラレルワールドが存在するっていう証明かもしれないね」


 文系はドリーミングなことを言う。

 まあそうだ。俺たち一般人にとってはGoogleの入社試験くらい縁遠い話なのだから、ラノベの設定に使えそうだなくらいに認識しておくのが一番いい。


「じゃあしゅーくん、可能性が収束したのに無理やり過去へ情報を送ることができたら、どうなるのかなぁ」

「……あー、さぁ。そこまではわからない」


 俺は温くなったお茶を飲み干した。


「まあ、真面目に考えたら、可能性が収束して情報を発進する地点があるわけだから、情報を送ったことで発生する別の世界線が生まれるだけで、現在は何も変わんねぇんじゃないの」

「例えば、じゃあわたしが過去に情報送って、ヒトラーのポーランド侵攻を食い止めたとしても……?」


「そうなったら、『ナチスドイツがポーランドへ侵攻しない世界』が生まれるだけ、になるな。俺たちは依然として第二次世界大戦が発生した今日を生きると思うぜ」


「そっかぁ……」


「いや落ち込むなよ。ぜんぶタラレバ話だから。電子レンジとブラウン管用意しても過去にメールなんて送れないよ」


 そこで田代から電話が掛かってきた。


 しずくに断って席を外す。振り返ると、しずくはさっきのルーズリーフを見つめながら、何やら神妙な表情をしていた。


「死んで欲しいけど報われないで欲しいわけじゃなかったなぁ……自業自得かなぁ」

 しずくは物騒なことを言っていた。

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