奪わせない決意をする

 3

「──くん、おき──よぉ!」

「あ……?」

「しゅー──起きな──遅刻す──よぉ!」


 俺は心地いい安眠の中にいた。温かい布団に、柔らかい毛布。何か、俺を揺さぶるものがある。それは揺りかごの動きと同じように安らぎの極地にあるもののように感じられた。


 願わくばこのまま、ずっと眠っていたいなぁ。


「もー! 意味わかんないこと言ってないで起きなきゃ遅刻するよ!」


 ──え?


「しゅーくん!」


 俺を、その名で呼ぶのは……。


「しず、く……?」

「そうだよ。しずくです。おはようございます。もー……いつもいつもねぼすけさんなんだからぁ……!」


 拗ねたように言う女の子がいた。


 黒い髪をロングにして、きめ細やかではないが白い肌をしている。子供っぽく唇を尖らせると、一回り年下のように感じられてかわいらしい。背は低く、胸も控えめ。本人は子供みたいだと気にしていて、俺は無神経にそのコンプレックスをよくからかっていた。


「待て、おい、待て……」

「ふぇ? え、しゅーくんどうしたの? お腹いたいの? なんか、こわいよ……?」

「おい、いまは2039年か……?」

「ファッ!? なに言ってるの……今は」


 しずくの唇の動きをじっと見る。俺は目を見開いた。


「2023年、10月24日だけど……」

「……うそ、だろ」


 あの、悪夢のような日を覚えている。その日付の、二か月だ。


 ベッドから起き上がろうとすると、いつもより遥かに身体が軽かった。足に筋肉がついている。腹が出ていない。コンタクトを付けた時よりも視界がクリアだ。呼吸が容易く、慢性的な頭痛と吐き気がない。


 俺は部屋を見回す。プレイステーションは5だ。7じゃない。


 ワンピースが全巻揃っていない。まだ連載しているのだ。


 テンプレート通りに頬をつねる。しずくがぎょっとした顔をするも、しっかりとした痛みがそこにあった。


「……しゅー、くん? あの、おばさん呼んでこよっか?」


 顔を覗き込まれる。本気で俺を心配してくれる感情を、美しい真珠の中に湛えているようだ。


「しずく……」

「う、うん。どうしたの? なんか、変だよ?」

「しずくぅぅ!!」

「へっ!? わ、わわっ、な、なに!? え、しゅ、しゅーくん!?」


 俺は力任せに幼馴染を抱き寄せていた。僅かに視界に映るしずくは湯気が出そうなほど赤くなっていて、ずっと、ずっと求めていた反応で心が満たされる。絶えず吹き荒んでいた寒風が止んでいくかのようだった。


「ごめん、ごめんな……俺が悪かった……!!」

「しゅ、しゅーくん……あの、え、はずか、しいよぉ……」

「俺が、俺がしずくに甘えっきりで、俺は、本当は、お前のこと、いつでもいけるって驕り高ぶって……! ごめん、本当に、ごめん……!」


「しゅーくん?」慌てふためいていたしずくが、ふいに静かになった。俺の目元まで手を伸ばし、そこにあったものをすくいとる。「な、泣いてるの? しゅーくん。なん、で? なんで泣いてるの? え、ええぇ!?」


「でも、もう俺は同じことは繰り返さないから……! もう、お前にだけ負担掛けさせたりしないから……! 約束する……!」

「ええええ!? よーし、よーし。しゅーくん、大丈夫だよー? しずくだよ? しずくはここにいるよー?」

「しずくがここにいるよおおおおおおおおおおお!!! うわああああああああああん!!!」

「えええ!? なんで更に泣いちゃうの!?」



「ちょっとアンタたち、そろそろ支度し始めいと学校間に合わ──!? !? !? あなたー! あなたー! 柊がやったわー! とうとう柊がしずくちゃんに手ぇ出したわー!!! お赤飯! お赤飯!」



 当たり前だが、最後に見た時に比べてお袋は随分若々しかったし、親父もヘルニアに苦しんでいなかった。


 俺は親父へ、「早いうちに腰のサポーター買った方がいい。バイト代でプレゼントする」と言ってやる。


「どうしたんだお前。今までバイト代全部自転車に使ってたのに」

「馬鹿言うなよ親父。自転車なんかいつでも買えるだろ。親父の健康の方が大切だ」

「かあさん……柊が、なんか、こう、なんだ……! 親孝行……! 親孝行……!」


 親父は感極まった風に泣いていた。俺も泣きそうになった。お袋は親父の頭をさすりながら怪訝な目で俺を見ていた。しずくは混乱の極致でおろおろと狼狽えていた。


 白米に卵焼きとウィンナー、そして味噌汁という簡素極まりないメニューが妙に染みる。俺はうぇんうぇん泣きながら朝食を食い進めた。「ありがとう……おふくろぉ……いつもありがとぉぉ……」


「私の息子が狂った……!」

「どうしたんだお前……」

 親父もドン引きしていた。しずくはまだおろおろしていた。



 場面転換。


 あのまま久闊きゅうかつじょす(俺だけ)のも悪くはないが、状況の整理は最優先事項だ。


「……信じられないな」


 どうやら時間は俺が高校二年生の晩秋まで巻き戻っているようだ。


 従って俺は株式会社マキシマムカンパニー所属のAIコントローラーではなく、中央第二高校二年生ということになる。


 コンビニに寄って朝刊を買ったが、AV男優が交通事故に巻き込まれて即死した、出没したヒグマが人間に懐いてゆるキャラ化したみたいな情報の中に、しっかりとしずくが教えてくれた通りの日付があった。


 総理大臣は岸田さんで、坪内さんじゃない。まだロシアとウクライナが戦争している。ツバルが完全に水没していない。沖ノ鳥島が島から岩礁へ格下げされて排他的経済水域が減少していない。


「……学生時代」


 先生や志村、前島さんの顔が脳裏を過ぎった。胸に一抹の寂しさが兆す。

 仕事は嫌いじゃなかった。しずくを差し引いても、あのノウハウを得られたことは素直に強みだ。


「切り替えなきゃな」


 何より、懸念すべきこともある。


「俺が知っている知識をまき散らすことで、正しい歴史にならない可能性もある。バタフライエフェクトで第三次世界大戦とか勃発したら最悪だよな……」


 ──俺は朝刊を、しっかりと、鞄の中にしまった。


 AIがどのように発展していくか、それがどういう原理で教育や経済に関わるようになっていくのか。関わっていた業界に搾られるが、それらの未来図を俺は知ってしまっている。


 これが現実なのか、あるいは狂った俺が見ている幻覚なのかは定かではないが、いずれにせよタイムリープである以上は時代にあった行動をすべきだろう。


「だがその場合、俺がしずくを手放さないことも本来の歴史には無い行動だ。じゃあ俺は大人しくして……ああああああ!!! いやだあああああ!!! しずくがいなくなるのはいやだああああ!!! しずくだけは失いたくないいいいいい!!!」

「うぇぇぇん……しゅーくんがおかしくなっちゃったよぉ……」

「しずくぅぅ……ごめんな……ごめんなぁぁぁぁ……」


 制服姿で泣きながら登校する二人をご近所さんは奇異の目で見つめてくるが、まあ正直そんなことどうでもいい。

 前の時間軸で俺が引きこもりになった時も大して興味を持たなかった。世間は思ったより俺に関心がない。素晴らしいことだ。


「ねえしゅーくん、どうしたの。なんか二週目とか、前の世界、とか、そういうことばかり言って。変なSF小説でも読んじゃったの?」

「変な人生を送ったな。苦痛だった。仕事しかなかった、じゃねぇよ。仕事に逃げてたんだろうがお前、クソが」

「よくわかんないけど向き合うべきことから逃げるのはいけないことだと思うな」

「ああその通りだしずく。しずくは頭がいいな。しずくは凄いな。あの頃の俺は素直じゃないから言えなかったんだが、俺はしずくのそういうところにいつも救われていたんだ」

「しゅ、しゅーくんホントに大丈夫? 病院行く?」


 いい加減慣れたしずくは半眼で俺のことを睨んできた。


 このままでは俺はやれやれ系クズからセカイ系キチガイへと変貌してしまう。もうちょっとマシな選択肢ないのかよ。


 通学路を歩いていると、段々と冷静さを取り戻してきた。気持ちが身体に寄っていっているのかもしれない。新鮮味が薄れ、普段通りの日常といった感覚が強まってくる。


「……うん。そうだな」


 未来は大きく変えてはならないし、未来の知識を活かして金儲けなんかもご法度だろう。経済の流れが変わって、思わぬところで破裂する危険性がある。


 俺は自分に変えていい範囲を設けた。


「しゅーくん? どうしたの?」

「いや、しずくがいてくれてありがたいなぁって」

「え、あ、も、もう。また思い付きでいじわるするつもりなんだ」

「これからはもうしないよ」


 しずくが寝取られる未来。何としてもそれだけは回避してみせる。


 あれは俺のだらしのない行動、そして慢心が原因だ。

 自転車にも飽きてやることがなくなったら、ぼちぼちしずくと付き合えばいいや──そんな舐め腐ったことを考えていた傲岸さが招いた結末だ。

 それらを取り払っていけば、俺がすべき行動は明白だった。


「これからはしずくを大切にするから」

「なっ、あう、あう……。しゅ、しゅーくん、わけわかんないこと言うのやめて」


 絶対にしずくと付き合って幸せな未来を迎える。

 俺は新たな気持ちで、二回目の通学路を踏みしめた。

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