第10話 #居候 #サイテーな交渉


 北広島駅から徒歩十分、管理の行き届いた築八年のエントランスを潜ると、そこにはポストを覗く家主の綺麗な横顔があった。


「八坂くん」

「あー……っす」


 これは「あ、お疲れさまです」の略称だということを、最近学んだ。

 男が流す視線は本日もご機嫌斜めで、抱えられた郵便物の量は、どう考えても一人暮らしの量ではない。おそらく、転送処理をしたも入っているはずだ。つまり、とてもばつが悪い。


「早かったですね」


 階段を上る八坂の背中がそう放つ。彼は、振り向きもせずに会話をすることが多いので、最近の私は『八坂の口は背についているのだ』と自分に言い聞かせていた。そうでもしなければ、沸々と何かが込み上げてしまう。


「八坂くんも早かったよね。いいの撮れた?」

「まあ、普通です」

「仕事?」

「……違います。これミラーレスだし」


 三階、三〇二号室。着いたところでようやく八坂は振り返る。「違う」と否定する前の空白は、数日前に放った私の一言が効いていることを語っていた。

 趣味でもカメラを手放さないくらい、写真が好きなんだね。なんて事をもう一度言おうものなら、これから頂く予定の夕飯はお預けを食らうに違いない。

 そういえば、今日の献立はなんだったっけ。


「ただいまー」


 開いた扉を潜ると、まだ馴染みきれていない玄関に私の声だけが反射する。ウォールシェルフに飾られたモノクロ加工の写真が、今日も冷たくこちらを見据える。

 あんたが『ただいま』なんて言うな、と、無言でリビングに向かう家主の背中が言っているような気がした。

 八坂青柊との同居、もとい八坂宅での居候を始めて早四日——彼との関係に改善は見られず、どちらかというと悪化の一途を辿っている。あの夜に持ち出した交渉は我ながら一方的で、私を嫌っている後輩の心労を考えれば当然の結果とも言えた。


 離婚届にサインをし、八坂と鉢合わせたあの日。夜風に吹かれて電車を待つ中、私は『八坂くんの自宅に緊急避難させてほしい』と愚考を述べた。

 退居の取り消し可能期間は疾うに過ぎ、しかし新たな引っ越し先を翌日までに手配しなければいけない。そんな崖っぷちに立たされた私に浮かんだ希望が、八坂だった。


 ——ふざけないでください。

 ——ふざけてない。正気。本当に困ってるの。

 ——他当たれよ。馬鹿なのか。

 ——やだよ。嫌われちゃうじゃん。

 ——はぁ?

 ——頼れる人はいるかもしれないけど……ううん、こんな無理なお願いできるのは八坂くんだけなの。すでに嫌われてるならもういいというか……それに、私のことが嫌いなら、変な気を起こされなくて済む。


 矢継ぎ早に出てくる建前に、八坂は眉間を摘まんでいた。お願い、と頭を垂れる私を見下しながら、盛大に嘆息を吐いた。


 ——無理です。

 ——……わかった。じゃあ、この写真、部長に送ってもいいんだね?


 それでも執拗に、スマホに示した強行手段はあまりにも不甲斐ない。脅しを実行した私の表情は、まさに悪役ヒールそのものだった。


 ——……サイテーだな。


 八坂の腹の虫は沸き狂っていたに違いない。スマホへと伸ばされた手を嗤うように、私はそれを素早くポケットに沈めた。


 ——次の家と仕事が……いや、家が見つかるまででいいの。だからお願い。


 家の隅っこ暮らしで構いません

 いくら顔が整っていても襲いません

 家主の言うことには逆らいません

 干渉しません


 ——お願い。お願い。お願いします。


 条件を羅列し、深く頭を下げる。吐いた息が蒸気のように溢れていく。頭を弾くように上げたのは、


 ——せめて土下座しろよ。


 と、冷たい声が落とされたからだ。そして、重たい溜息を吐いた後、彼は言った。


 ——機材・・には絶対に触れないこと。一ヶ月以内に家を見つけて退散すること。誰にも言わないこと。勝手に家事をしないこと。家賃・光熱費の半分を負担すること……って、聞いてます?


 私は瞬きを何度か繰り返し、何度も首を振った。

 その後も条件は細かく続けられたけど、あの写真だけで窮地を脱せるのであれば安いもの。本来払うことになる、引越しのキャンセル料や違約金のことを思えば、財布に優しいとまで言える。


 はい。と、私は二つ返事で条件を呑んだ。

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