第2章 孤挺花「強い虚栄心」

第9話 #同期で親友 #若い男


 GWゴールデンウィーク半ばの昼下がり、駅ビルの最上階に佇むカェは、寛ぎのくの字も無いくらいに騒々しい。きっちり二人用に作られたテーブルとそれが陳列する店内では、隣の席への配慮が必要だった。


「えっ。離婚ってマジだったの?!」


 なのに、正面でアールグレイを嗜む元同僚には配慮のはの字もない。しかも、瞳子という名前の割りにいつも死んでいる瞳が、今爛々と輝いているのも頂けない。私は人差し指を立て、


「そんな大声で言わないでっ」


 と、周りを憚った。


「冗談かと思ってたわ」


 背を凭れた同期のショートカットが前後に揺れる。現在無職の私と違い、この吉岡瞳子にとっては貴重な連休だからか否か、いつもよりも彼女のテンションは高く、反応はまたしても高らかに響いた。


「冗談でそんなこと言わないし。もう届け出したって連絡あったよ。ほら」

「うっわ。そんな写メ送りつけてくんなよ。気持ちワル」

「そんな風に言わないでよ。優さん、別に気持ち悪くはないし」

「よく庇えるねぇ、そんな男」


 吉岡に手渡したスマホを呼び戻すと、彼が写真に収めた『離婚届受理証明書』が視界に映る。申請をしなければ得られない証明書を、わざわざ購入して写真の共有までしてくれた。そんなことをしなくても、あの夜のことはもう疑う気力もないのに。


「そんな男……だけどさ。あの瞬間まではちゃんと、一応、好きな人だったわけだし」

「そうなんだけどさぁ、いやそれより、おばあちゃん納得してた? たった一人の孫娘を振り回されて、訴訟起こしてもおかしくないよ。だってある意味、結婚詐欺みたいなもんじゃん?エステも通ってたんだし、式のキャンセル代だって馬鹿にならないじゃん」


 吉岡の言葉に鼻がツンと呻く。

 祖母に経緯を話したのは、三日前のこと。電話の奥で


 ——そうか。駄目だったか。


 と一言、紡がれた。久々に聴く優しい声色は、戻っておいで、と甘い言葉を掛けるでもなく。また好い人が現れるよ、と励ますわけでもなく。ひどい人だ、と彼を貶すわけでもなく。ただ『駄目だったか』と一言、一緒に区切りを付けてくれたことに、今更涙が溢れそうになった。


「一応、諸々キャンセルにあたっての負担は折半って話になってる。式自体のキャンセル料は、向こうの両親が全部負担してくれるって」

「そんなの当たり前……って言いたいところだけど、その異常性のなかで聞くと、えらい神対応に思えるわ」

「まぁね」

「で、島には?戻らなくていいの?」


 その問いかけに一瞬固まる。でも、吉岡のトーンがいつもより優しいので、すぐに表情筋を崩した。普段は毒を吐かれているせいか、余計に染みる。


「うん。まだこっちで頑張るつもり。ミンスタも続けたいし、結構札幌でオフ会とかあってさ」

「まあ、あれだけフォロワーついてたらね。でも、どうすんの?もう結婚は嘘じゃん、式出来ないじゃん。結構ブライダル系の方向にシフトしてない?今」


 ズバッと斬り込む吉岡の言葉に、私の肩が跳ねる。

 私のアカウントでは、日常やコスメを紹介する投稿もしていたし、それなりに幅は利かせていた方だ。けれど確かに、最近はブライダル関連の投稿が中心で、オススメサロンの紹介なんかも評判が良い。


「さすがに、すぐには……」


 苦い顔のまま濁すと、全てを言うまでもなく吉岡は


「まだカミングアウト出来てないってことね」


 と、頷いた。


「……出来てません。当たり障りない日常と自撮りだけ、一応上げてる」

「元気じゃん」

「元気だけど」


 項垂れていると、背の高いグラスに層を重ねたストロベリーパフェが運ばれてきて、私は瞬時に背筋を伸ばす。そしていつものように、吉岡に「お願いします」とスマホを手渡すと、彼女は慣れた手付きでレンズを光らせた。

 アイボリーのブラウスに包まれた“ena”と完熟イチゴの相性は、きっと抜群に良いだろう。


「ヘイ、インフルエンサー。これ、金取ってもいいよね?そろそろ」

「そんなこと言わないでよー、瞳子ちゃんー」


 投稿用の撮影を頼むのは、これで通算何回目だろう。両手に収まる数でないことは確かだけど、吉岡は一度も嫌な顔をしなかった。

 キツい研修や苦境をともに経験した唯一の同期だ。なんだかんだで、吉岡も私のことが好きなのだと思う。


「で。いつセッティングしてくれるの?」

「何が?」

「Tomoharuたちとの合コン。コネクションあるんでしょー?」

「んー、Tomoharuねー」


 にやり、と口の端を持ち上げる吉岡からスマホを受け取る。撮ってもらった写真を確認しながら、Tomoharuってどこの子だったっけ、と記憶を辿った。


「推しなの?」

「そ。いま一番推してるメンズ」


 頷く吉岡を見て、ようやく思い出した。Tomoharuは確か、いま彼女が熱を上げているインディーズバンドのボーカルだ。

 まだフォロワーが千人台の頃。運良く誘われたミンスタ(を拠点に活躍する)モデルのオフ会で、ライブのチケットを渡されたことがある。チケットと一緒に「良かったら」と向けられたTomoharuの笑顔は、どこかクールだけど不自然さはなく、持ち前の美貌を上手く生かしているなと感心した。

 けれど、仕事の繁忙期だったために、チケットをおじゃんにしてしまったのだ。ダイレクトメールで謝意を述べて以来、彼との会話は途切れたまま。つまり、コネクションなどあってないようなものなのだけど。


「良さそうな子だよね。何歳いくつだっけ?」


 話題を広げつつ、一度紹介からは遠ざける。口に放った苺は、思っていたより甘酸っぱい。


「二十三」

「へぇ、若いね。あれよね、動物で喩えるとシベリアンハスキーって感じ」

「あー。分からなくはないな。媚びてる感じはしないけど、頑張れば懐いてくれそうなワンチャン感、あるのよね」

「でしょ?絶対悪い子じゃないし」

「しかしまぁ、年上の旦那も羨ましい~とか思ってたけどさ。年下も捨てたもんじゃないわぁ」


 吉岡の言葉に喉が詰まる。それも、どちらかというと後半の方に意識は傾いた。二十三ほど若くはないけれど、『年下』という言葉で不本意にも思い浮かんでしまう顔がある。


「……吉岡って、あの子どう思う?写真部の八坂くん」

「八坂くん?何よ急に」


 思い切って名前を出すと、吉岡は眉を寄せる。その反応のせいで、私の喉は変な音を立てた。


「いや……ほら、年下繋がりで」

「うーん。イケメン?」

「イケメンだけど実は凶暴そうというか……動物に喩えると、土佐犬って感じしない?」


 余計なことを口走らないように、とテンパったせいか、また可笑しなことを吐いてしまう。


「土佐犬?そんな攻撃的に見えてたの?」


 と、吉岡は笑う。シベリアンハスキーは分かり合えたけど、土佐犬はあまりピンと来ていないようだ。


「それで。八坂くんがどうかしたの?絡みあったっけ?」


 彼女の、探るような瞳に少しドキリとする。


「無いです」

「ふーん、なんだ」


 イエス、なんて言えるわけがない。そもそも他言無用は提示された “条件” のひとつだ。それに、たとえ口を滑らせたとしても、吉岡は冗談として聞き流すに違いない。

 帰宅する場所が八坂の家だ——なんて、信じられるはずもない。


「んじゃ、それ食べ終わったら行きますか」


 頷きながら最後に食べた苺は、さらに酸味が増していた。

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