第8話 #駅のホーム #塩対応
エレベーターから下りた後、希望は僅かたりとも残されていなかった。
「……さすがに居るわけないか」
「旦那が?あ、もう違いましたね」
独り言を掬うどころか傷口に塩を塗ってくる後輩は、どうやら未だ写真の削除を諦めきれないらしく、駅までの道を歩く私に付いて来る。
「私のファンなの?」
と訊ねると、
「はぁ?」
と、本気のトーンで返されたので、もう絶対に訊かないと心に誓った。
結局、私たち二人は札幌駅のホームで同じベンチに腰を下ろした。四つ並んだ座席のうち二つの空席を挟む、はた迷惑な座り方だけど、心の距離を示すにはあと数席ほしいくらいだ。
それにしても、今まで同じ方面の同じ電車に乗っていたとは。彼が入社してから丸四年経つのに、全く知らなかった。
「寒いね」
「大分暖かくなった方だと思いますけど」
「……ねえ、なんで素直に受け取れないの?八坂くんって皆にそうなの?」
それに、ここまで捻くれた男だということも知らなかった。というのも、社内での八坂青柊の評判は、決して悪くはなかったのだ。
業務の上では捻くれたところなど垣間見えず、むしろ世渡り上手なイメージが定着していた。他のカメラマンより癖も無く、言われた仕事を卒なくこなすイメージさえあった。それに彼の撮る写真はいつも評判がよく、年下なのに凄いな、と尊敬の念を抱いたこともある。
八坂の同期である貴船あおいも、彼の班によく同行していたけれど、悪い噂は彼女からも聞いたことがない。それにあおいも、彼の写真技術を称えていた内の一人だ。
つまり、技量はともかく、社内では猫を被っていたということだろうか。 いや、それとも——。
「素直ですよ。態度にしっかり出してるつもりです」
空席二人分の向こうで、長い脚が組み替えられる。背凭れに寄りかかった背骨が少し丸まっていて、せっかくのスーツ姿が勿体ない。
私は流された視線を回避して、どうでも良い思考を巡らせた。脳内で、微かに警鐘が鳴ったからかもしれない。
「嫌いなんですよ」
「……」
「小國さんのこと、嫌いなんです」
「何度も言わないでよ、そんなこと」
なんとなく態度から察してはいたけれど、やはり予感は合っていた。
電光掲示板を見上げ、次の電車まで未だ二十分もあることに肩を落とす。今日は本当に、最悪の一日だ。
「理由は訊かないんですか」
そんな、腕を組んで見下ろすような態度で言われても。
「訊いて落ち込んだばっかりだから、訊きません」
「ああ。別れる理由?」
「そう」
「どうせ、他に女が出来たとかでしょ」
「ああ……その方がマシかもね」
「違うんですか?」
凭れていた丸い背骨が少し浮く。距離に応じた声よりも小さく漏らしたつもりが、閑散としたホームのせいでしっかり届いてしまったらしい。
二十分前からホームで待つには、まだ寒さが残る夜。酔いも夢も覚めた体を、私は微かに震わせた。
「合わないと思うって言われたの。タイプが違うって。それってさ、私に問題があるってことじゃん。浮気なら優さん……相手のこと一点に責められるけど、そんなこと言われたらさぁ。婚約した後に何か間違ったことしちゃったのかな、って。まあ、それにしてもあの態度と仕打ちはないけど」
吐き出した後、ようやく自分の気持ちと向き合えた気がしてベンチに背を凭れると、自然と視線が上を向く。最上階から見下ろす夜景も素敵だけど、ホームの中、鉄格子の屋根から覗く狭い夜空も、今はとてもキレイに思えた。
「どうしよう。これから」
「知りませんよ。泣かないでくださいね」
「ひどい。泣きそう」
「面倒くさいので止めてください」
「アハハ。確かに」
「面倒くさかったんでしょう、その彼も。あんたのそういうところが」
「あんたとか言う……」
「まぁ、人間関係なんて大抵面倒くさいですけど」
「はい?」
彼は膝に頬杖を突き、必要最低限の動きで唇を割る。
「他人との関わりなんて面倒じゃないですか。それを受け入れるだけの器があるか、溢れるほど我慢ならないほど厄介なのか、それは相手によって変わるんじゃないですか。……だから絶対、泣かないでください。面倒なので」
「もしかして励ましてる?」
「んなわけないでしょ」
ごめんごめん、と笑うと、八坂は再び背を凭れて息を吐いた。めんどくせぇ、と漏れないだけ及第点かもしれない。
「私の面倒なところもぜーんぶ受け止めてくれる人だ、って。そう思って結婚決めたんだけどなぁ」
「見誤りましたね」
「私も色々受け止めたんだよ?色々」
「生々しい話はやめてください」
「そんなのしてませんけど」
尖らせた唇からふっ、と息を吐く。不本意ながら、彼のおかげで肩の力が少し抜けたようだ。
「じゃあさ、八坂くんが私のこと嫌いなのは何で?」
「結局訊くんですか」
「ちょっと元気出てきたから」
「意味わかんねぇ」
八坂は軽く息を吸った後で、小さく放った。
「……SNSです」
「うん?」
「小國さんのSNSを見たことがあって。この
ミンスタのことか、と直ぐに合点がいく。
称賛の声が高まるのと比例して顕著になった、アンチの声と同じように、八坂の放った言葉も無機質な文字に置き換えられる。だけど、ダイレクトメッセージで浴びせられる心無い誹謗中傷よりは大分マシだ。
「八坂くんもやってるんだぁ、ミンスタ。そもそも、私のアカウント知ってくれてたことに驚いてるけど」
「へこんでないじゃないすか」
「へこんでますよ」
これでもちゃんと、へこんでますよ——。
そう言葉を重ねながら、私はすっかり放念していた任務を思い出してポシェットを
「消してくれる気になったんですか」
希望を孕んだ表情とは裏腹、抑揚なく放たれる声に「いや」と即答する。
「投稿するの忘れてて」
「ハ?」
「ミンスタに、今日のディナーのこと」
画面に張り付けた双眸と、素早く画像を加工する指に、八坂の嘲笑が落とされる。表情を見ずとも、その笑みが軽蔑を大いに含んでいることは想像に易い。とはいえ、任務遂行に支障はなかった。特筆するなら、夜風に晒された指が少し冷たいくらいだ。
「楽しいですか、それ」
「楽しいよ」
私はハッシュタグに『dinner』『SAPPORO』と横文字を添えながら、ぶるっ、と肩を震わせる。
「くだらない。見栄の張り合いじゃないですか、そんなん」
「見栄でもいいじゃん。自分を飾る事の何が悪いの?」
「悪戯に景色を加工して、顔を加工して、それで称賛をもらって嬉しいんですか」
「ツールだから」
「はい?」
「どんなに分厚いフィルターを掛けても、プロデュースするのは自分自身。これまで作ってきた広告と同じ。それを認めてもらえたら、素直に嬉しいのよ。だから私にとって写真は——重要なツールなの」
言い終えて『投稿』をタップすると、ローディング画面に切り替わる。画面から視線を横に流せば、八坂はやはり軽蔑を露わにしていた。刺すような眼光に背が凍てついた。
「だから、余計ムカつくんだよ——」
溢れた言葉は、風に取られて消音間近。私は
「え?」
と聞き返す。聞き返さなければ良かった、と後から思ってももう遅い。
「あんたみたいなのが一番嫌いなんだよ」
珍しく感情を剝き出しにして吐く八坂を捉え、私は心頭滅却を密かに唱えた。これまでの「嫌い」とは確実に温度が異なる。
電車が来るまで残り十分にも関わらず、彼がベンチから立ち上がったのは、つまりそういうことだろう。
「私は
しかし、対抗するように吐き出された自分の言葉にも、私は内心戸惑った。この負けず嫌いな性格も、元夫には面倒だと思われていたのかもしれない。
「可愛い顔に生まれただけじゃないもん。皆が憧れるような生活を切り取るために、工夫してるのこれでも」
「論点ずれてますし、言うほど可愛くないですよ」
八坂は振り向き、空笑いを響かせる。両ポケットに突っ込まれた手を爪に挟んで、今すぐ摘み上げたい気分だ。
「っ、可愛いし!皆褒めてくれるし!」
「残念ながら、俺の好みからは大外れしてますんで」
「八坂くんの好みって何よ」
「さあ。少なくとも、承認欲求に囚われた人間は論外ですね」
にっこり、勝ち誇ったように突き出された表情が卑しい。
「……他の人に無い、自分の価値を認めてもらいたいって気持ちの、何が悪いの」
私は立ち上がり、
「出してよそれ、ムカつく」
と、八坂の手をパンツのポケットから引っ張り上げる。さすがに爪で摘まむまではしないけれど、近づいた端正な顔は引き攣っていた。
「虚構に囚われたマウンティングじゃないですか。くだらねぇ」
「八坂くんだって写真を撮ってるんだから、綺麗に撮りたいとか見せたいとか、そういう気持ちくらい分かるでしょ」
「表現とツールは違うんですよ。肝に銘じてください」
「何よそれ」
「ツールとしての写真が蔓延る風潮に、俺は辟易してるんです」
ネクタイを緩めて息を吐く様は、ホテルで見た時よりも数倍感じが悪い。しかし弛んだネクタイとは裏腹、彼が嫌悪する筋はしっかりと通っている。
逡巡した後で、不本意ながら私は「なるほど」と息を落とした。
「八坂くんって、本当に写真が好きなんだ」
目を上げると、八坂は再び感情を剝き出しにした。今度は怒りのメーターではなく、気恥ずかしさがカンストしたらしい。シャツの合間で赤くなっていく首筋を目に焼き付けた。
「別に、そんな話してないでしょ」
なんだ。意外と可愛いところもあるじゃない。
動揺からか、借り物である大事なネクタイをクシャッ、と握る後輩。覗き込むと「見んな」と掌で払われた。
「要は、私の写真の使い方が気に食わないって話でしょ?八坂くんは写真が大好きだから」
「前半はまぁそうです。後半は別に、」
やっぱり、否定はしない。
「そういうの、なんかイイね」
「は?」
「私は八坂くんのこと、嫌いじゃないよ」
呆けていても綺麗な顔の下で、だらしなく垂れる彼のネクタイを締め直す。急なことで、阻止しようと動いた八坂の手は間に合わず、宙へ浮く。
私は両手でその手綱を握ったまま、飛びきりの笑顔を彼に晒した。
「私のこと嫌い?」
「嫌いです」
「うん。それなら好都合」
「何が?」
「一生のお願いがあるの」
「嫌です」
「それはね——」
構わず “お願い” を続けた直後、固まった表情はシャッターを切る間もなく歪んで「馬鹿なのか」と重低音を響かせる。
八坂青柊は私にとって元職場の後輩で、全然可愛くなくて、とてもとても好都合。それ以上でも以下でもない他人の関係で、すべて終わらせる。終わらせられる。
「お願い。お願い。お願いします」
「せめて土下座しろよ」
だってこんな生意気——これっきり、もう当分御免だ。
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